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とーほぐべん(東北弁) 

井上ひさしの『吉里吉里人』をのんびり時間をかけて再読している。

《此様(こげ)な理由(わげ)で分離独立言(つ)う物(もん)は手間コ暇コが随分かがる。》

東北の言葉は「犬ッコ」「猫ッコ」というふうに「ッコ」というのをよく付ける。うろ覚えだが、たしか「車ッコ」とか「バイクッコ」とかもありえる。外来語でもお構いなし。けっこう自由に使っていて法則がよく分からない。

これ、いったいどういう法則で付けるんですかと南三陸町でとーほぐ原住民のみなさんに聞いたことがある。

気分的に「小さいもの」という意味が加わっているときに付きやすいそうだ。スペイン語の示小辞(縮小辞)と同じ。たとえばセニョーラ(おばはん)>セニョリータ(ねえちゃん)、セニョール(紳士)>セニョリート(金持ちのあほぼん)という感じ(意訳)。

つまりかならず大きいもの、たとえば

「超弩級戦艦ッコ」
「Hカップの巨乳ッコ」

とかはありえないということになる。

関西でもベタベタの関西弁を話す人とあるていど東京弁を交ぜて話す人とがいる。どこでもこうしたグラデーションが世代と育ちとその人の言語能力によって発生するのだが、東北はそれが極端だ。

こっちが横で聞いているのに言っていることが半分くらいしか分からない人がいた。ショックだった。そういう人が2人集まって話し出すと「何について話しているのかがかろうじて分かる」ていどになってしまう。

冗談ではなく、本当に周りの若い人の通訳を必要としたことが何回もあった。

東北(とーほぐ)で取材(すぜー)すてきた新聞記者諸君(すんぶんきさそぐん)のそーいう苦労話(くろーばなす)ば聞いてみでえもんだ。


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[2012/06/16 20:06] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(0)

被災地が2割だけもとに戻った春 

 EINSHOPのメールマガジンでひさしぶりに東北の被災地レポートを書きましたので、以下に再掲します。写真付きのレポートはこちらのページでご覧いただけます。

被災地が2割だけもとに戻った春
南三陸・馬場中山地区レポート
http://www.einshop.jp/mailmagazin/20120525/index.html

──────────────────────────────

 震災直後から現地を見てきた者としては信じられないのですが、1年目にして漁業が復旧し、被災前の2─3割のワカメを収穫することができました。

 きょうは5月初めに東北を訪ねたレポートをお届けします。

          ……………………………………………………

 ワカメというのは食卓のメインになることもありませんし、汁物の実などとして気にもとめずに食べていることがほとんどですよね。

 それがこれほどの手間と労力をかけて生産・選別されているとは。これまでEINSHOPオンラインのデリシャス・アインのために各地の農林漁業を取材してきました。ワカメ漁船に乗り、一連の作業を取材してきても、まったく同じ感慨を抱くことになりました。

 みなさんからの義援金をお届けしてきた馬場中山集落では、今シーズンは3月ごろからワカメの収穫が始まりました。

 いま「収穫」と書きました。ワカメは漁協に出荷する漁業産物として扱われていますが、実感としてはあくまで農産物に近い。相手が植物だけに「海で農業をやっている」というのが現場を訪ねた実感です。

 たとえば、栽培品ですからワカメにもちゃんと品種があります。成長の遅い品種、メカブが大きくなる品種、歯ごたえがある品種、波に強い品種。などなどいろいろあって加工目的や漁場にあわせて漁師は品種を選んでいるわけです。

 品種や加工、選別の状態に合わせて最終的に分けられる等級は10種類を超えます。

 馬場中山カオル商店で販売しているワカメはその中でも最上等。「外抜1」という等級の品物です。

「外」は内湾ではなくて外洋で育ったワカメであること
「抜」は芯抜き(茎の部分を外すこと)してあること
「1」は1等品

をそれぞれ意味しています。

 ほんとうは商品の販売時期にご紹介できればよかったのですが、あちらもWEBで商品を販売するのが初めてとのことで、在庫の管理が難しく、また冷蔵庫の手配が難題になって今年の販売期間は終了してしまったとのことです。うーん残念。本来はあと数カ月販売する予定だったのですが……。

 このワカメの収穫に漁師たちが出航するのは朝3─4時。沖のロープにびっしりと育ったワカメをクレーンで水揚げし、カマを使って切り外していきます。

 ワカメを船に山盛りに積めるだけ積んで帰港したら、まずメカブを外す(これは別の製品として販売します)。本体の葉は港にあるカマでゆでして冷却します。つぎに塩分をからめてから圧縮。12トンもの圧力をかけて水分を絞ります。

 じつはここからが大変。膨大な量のワカメ1枚1枚から痛んだ葉を取り外し、茎を外していきます。まさに人海戦術。

 今年はまだ復旧が2割ていどでですので人手も少なくてすんだそうですが、例年なら一族・知人が総出で自分の船が収穫してきたワカメの加工・選別作業にあたります。

 この選別作業はビデオにあるような地道な作業ですが、作業にあたっている女性や年配の人たちはとても楽しそう。一族集まってのおしゃべりしながらの作業は、三陸海岸の春の社交場としても機能しているそうです。

 こうして最後はそのワカメの中からさらにゴミや色の悪い部分を取り除いて完成。この選別の精度が高いものが等級が上がります。「味はいっしょなんだけど、ほんの少し色が悪い」という部分もどんどん取り除いていきます。

 もったいな気がしますね、このへんは。もうちょっとうまく販売ルートに乗せられれば復興の一助になると思うのですが。

 こうしてできたワカメは、三陸産の高級ワカメとしてみなさんの食卓に届けられます。三陸海岸のワカメはシャキシャキした歯ごたえが人気で、とくに関東では一級品扱いになっています。

 関西には鳴門ワカメなどほかのブランドがありますが、いちど機会があったらぜひ食べ比べてみてください。

          ……………………………………………………

 ひさしぶりのレポートの最後になりますが、いまの被災地の現状について書いておこうと思います。

 被災地の復興度合いですが、ほんとうに途中からまったく進んでいないといってもいいと思います。

 漁業の復旧については、漁師のみなさんの必死の努力でこれからも着実に進んでいくでしょう。「来年のワカメは震災前の5割の復旧を目指す」という言葉を今回も聞きました。これは信じていいと思います。夏あたりにはまた重労働が始まりますのでお手伝いに行けたらいいなと考えているところです。

 しかし一方で、集落にはまだ家がありません。漁師の住まいはもちろん仮設住宅ですし、これまでに建ったのは急ごしらえのプレハブやテントばかり。ワカメの選別加工場や海産物会社の社屋です。民家のあった場所はどうなったかというと、いまだに何もないサラ地が広がっています。

 昨年の今ごろは、全国からたくさんのボランティアが現地に駆けつけて地道な作業に汗を流しました。ガレキはどんどん撤去され泥も排出されました。すごい成果だったと思います。

 しかしそこからがまったく進んでいない。ガレキがなくなった場所に、草がぼうぼうと生えただけです。

 今回は感動したことがありました。

 毎回南三陸町に行くたびに、高台にある志津川中学校からの風景を撮影することにしています。震災直後は立地のよさからメディアセンターや自衛隊の駐屯地になっていた場所です。

 ここから見ると、震災前までびっしりと養殖イカダに埋め尽くされていた志津川湾に少しだけですがイカダが戻ってきていました。その面積は震災前の10%にも満たないのですが。1年前のわたしは同じ場所で

「5年間は何もできないんじゃないか……」

と思いましたから。ほんとうにすばらしい成果です。

 ところが、海の手前に目をやるとサラ地はそのまま。広大な草っ原が広がっています。

 高台移転のめども立たないし、ここに存在していたコミュニティは崩壊してしまったままなんです。

 「南三陸さんさん商店街」という仮設商店街ができていたので、帰り道にちょっと早めの昼食を食べることにしました。被災地に行くときは現地にお金を落とすためにもできるだけ物や食料は持ちこまず、現地調達することにしています。昼食も被災地を離れる前にしておこうというわけです。

 海鮮丼を食べたその店は、たまさか商店街の会長さんが経営する店でした。

「早くしないと時間切れになってしまう」

という言葉が印象的でした。高齢化する中で借金してまで自宅や事業を立て直すにも、タイムリミットがあるのです。高台移転や地域の復旧にはまだまだ時間がかかるでしょう。一時はおおいに批判された自治体も今は一生懸命やっていると信じて祈るしかない。

 あとわたしたちにできることは何か。

 このさんさん市場でおもしろい光景を見ました。大型テントに高校生が集まり、地元の人の話を聞いているのです。聞くと、東京の高校生とのことでした。

 いずれ来る大震災に備えなければならない未来の大人たちが、研修旅行で被災地を訪ねてきているのです。話しているのは地元のボランティアの方々。かれらも身内をなくしています。

「これまでは東京に出かけていって話をしていたんです。でも現地でなくては被災地は分からない。それで来て感じてもらうことにしたんです」

通りすがりのわたしに、涙ながらに話してくれました。

 そういえば、昨年6月に東北旅行をEINSHOPオンラインで募集したのを思い出します。あまりに時期尚早といえば時期尚早。結局申し込みがあったのはおひとりだけでした。この方には個人的に東北各地をお見せするツアーへとお連れしました。

 あれから1年。もうだいじょうぶ。被災地の人たちはみなさんが来てくれるのを待っています。

 この夏は、ぜひともどこかの被災地をたずねてみてください。心を打たれる何かがあると思います。



[2012/05/26 23:59] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(0)

馬場中山地区のこれから 

 東日本大震災の義援活動について、EINSHOPのメールマガジンでこれまで10カ月の報告を書きました。目にする人はメルマガの読者に限られているので、こちらにも掲載しておきます。

 馬場中山地区ホームページの担当者の千葉馨君に頼んできましたので、残してきた義援金が使われるたびに

「アインショップへ義援金を寄せてくださった皆さん、ありがとうございます。」

という記述がでます。こんなふうに。なんかリアルでしょ。


     ────────────────────────────────────────


 わたしはこの震災で「EINSHOP義援隊」を立ち上げて活動してきました。昨年は6回の東北入りで、合計約60日を被災地支援活動に費やしたことになります。

 これも、みなさんからの声援と託してくださった義援金をきちんと現地に届けなければ、という責任感のおかげです。

 今、被災地はだいじな段階に入っていますので、あらためて現地からの報告と義援金の支出についてご連絡します。



被災から活躍した3種類の人たち

 3月下旬に初めて宮城県を訪問してから復活のようすを見続けてきた宮城県南三陸町の馬場中山集落(http://www.babanakayama.jp/)では、これまで3種類の人たちが活躍してきました。


1 緊急レスキュー
救急医療・捜索作業・緊急衣食援助→震災当日から数日

2 ボランティア
ガレキ撤去・物資援助→数日─数カ月

3 復旧専門家
仮設住宅・道路・物流復旧・自治体→数週─数十カ月


 東日本大震災はあまりに規模が大きかったので、先日もまだ遺体の捜索が続いているとNHKニュースでも報じられていました。そんな幅はあるものの、復旧にたずさわる中心人物はだいたいこんなふうに変わってきました。

 12月初旬に訪ねたときも、馬場中山のみなさんは高台移転と漁業復旧の話し合いを進めていました。住宅や漁船など仕事復旧の補助金を受けるため、書類の手続きに奔走しています(締切がけっこうタイトなのです)。

 馬場中山ホームページ(http://www.babanakayama.jp/)でも、しょっちゅう村の人たちが寄り合いを開いている姿が見られます。3の段階がずいぶん進んでいるというわけです。



次にやってきたのは「商売人の段階」

 そんななか、これまでの3段階に加えて今立ち上がってきたのが、

4 商売人の段階

だと思います。つまり「商い・商品・販路の復活」で、この作業委は震災数カ月後から始まり、これからずっと続いていきます。そして、この段階からが「復旧か復興か」の分け目になるでしょう。

 家や漁船が手に入っても、それはみかけが元にもどっただけのことです。

 とうとい人命はもちろん、過去に積み重ねてきた遺産、たとえば顧客名簿とか取り返しのつかない道具とか、人脈とか、そういうものをたくさん失ったうえ、補助金が出るとはいえまた大きな借金をするわけです。

 ですから、ここまでは決して「復興」とはいえません。
 たんなる復旧(旧に復する)です。

 復旧にとどまるか、復興してさらに以前より繁栄していくかは、ここから商いを発展されられるかかかっているんですね。

 ですから、本当に現地を助けたいなら、ここで手を緩めてはいけないと思います。震災のことはほとんど過去のことになろうとしていますが。実はほんとうの勝負はここからです。



義援金は馬場中山の支援センターに託しました

 12月の訪問で、みなさんからお預かりした義援金約50万円を「馬場中山支援センター」に預けてきました。

 震災の発生直後は義援金を石けんや衣類、食料などの物資にして現地に届けました。その後状況がやや安定してからは、若手漁師さんたちが使うパソコンやルーターなど、通信関連に注力してきたのは「アインショップ義援隊」でもご報告したとおりです。

 しかし、住宅や漁業の復旧段階に入ると、必要な物資に高額のもの(重機の燃料や船そのもの、砂利など建築資材)が多くなり、効果的な支出が難しくなっていました。

 そんな中で、12月の訪問ではあらたな有効な使い方を見いだすことができました。

 これまで、馬場中山支援センターの管理人でWEBサイト(http://www.babanakayama.jp/)の担当でもある千葉馨(ちば・かおる)さんはまったくの無給でやってきました。自分も被災者なのに、いわば集落内ボランティアの形で活動してきたのです。

 しかもケータイ代金やこまごました出費は自分持ち。千葉さんはこれからも、集落とボランティアをつなぐ支援センターを運営したいと考えていているのに、予算がまったくないため困っていました。

 そこで、みなさんからの義援金はこの支援センターの経費として使えるよう預けてきたというわけです。

 半年以上おつきあいをしてきましたが、千葉さんは非常に信頼できる人物です。何にいつ使うかを含めて、この人に全額をまかせて大丈夫と判断しました。たとえばこの日のプリンター購入やインク購入などにさっそく活用されています。


馬場中山地区の様子(1月6日、ページ後半です)
http://www.babanakayama.jp/diary/201201/diary20120106.html

馬場中山地区の様子(1月10日、ページ中ほど)
http://www.babanakayama.jp/diary/201201/diary20120110.html

 室温が低すぎて朝は起動しないなんていうハプニングも東北らしいところです(10─11枚目の写真)。

馬場中山地区の様子(1月8日)
http://www.babanakayama.jp/diary/201201/diary20120108.html


 今後も使った内容はWEBサイトに随時アップロードされていくことになっています。



馬場中山集落の「本当の復興」を助けよう

 僻地といえる馬場中山集落では、奇跡的な工夫と努力と支援が集中したおかげで、秋に養殖ワカメの種付け作業をすませることができました。

 ワカメはこの地区の漁師たちの主要な収入源。いま、冷たい親潮の中で長さ約30センチにまで育ち、このままぐんぐん伸びてあと2カ月ほどで収穫期を迎えます。

 とにかく必死で種付けをしたあと、いま漁師のみなさんは出荷作業のための加工設備を調達するのに走り回っています。

 しかしこのワカメ、販売経路はどうなるのでしょうか。
 以前より高く売れるのでしょうか。
 それも継続的に?

 これからは現地の人たちと協力して、商売の手助けをしたいと思います。

 たとえばこのワカメをできるだけ高く売れるように手伝いをすること。販路を開拓し、販売用のWEBサイトを作り、商品のデザインを手伝う。関西でも売れるように情報の提供のしかたを工夫する。いろんな販路を紹介し、お客様からの声を伝える。

 ここで役立つのがWEBサイトを作ってきた経験のある千葉馨さんの能力です。

 地元の産品をできるだけたくさん直接買ってもらえるように、WEBショップを作り、また現地からの情報を発信する。それは無給の活動ではなく、千葉さん自身と集落の実質的な収入増加にも直結します。

 わたしも一緒に方策を考えて、まずは現地情報を発信する有料メールマガジンの発行を千葉さんに始めてもらいました(現在第4回まで無料発行中です)。


馬場中山メールマガジンについて
http://www.babanakayama.jp/info/mm/index.html


 ご興味のある方はぜひ購読してみてください。日刊新聞が年間5万円弱もすることを思えば、自分の興味のある地域の現地情報が年間1万円で毎週届くのは値打ちがありますよ。

 原発のこと以外はマスメディアが報じなくなってしまった中ではさらに有益な情報源に育っていくことだと思います。さらに「メルマガの購読者のみのワカメ購入特典」や、緊急プレゼントなどもありますので、実質ずっと安い買い物になるのは確実です。

 なにより、買っていただくと全額が完全に被災地の千葉馨さんに届きます。現地と外部をつなぐことを仕事にしていこうとしている誠実な彼に。


 というふうに、今後は現地に訪問して薪割りなどをするのはもちろんですが、こういう現地の経済活動の復興を手伝っていこうと思っています。

 雑貨屋を運営してきたものが漁業といっしょになったからこそできることとして。EINSHOPには、さいわいにも産直商品としてカキいももちなどを扱ってきた歴史があります。

 これから馬場中山地区が「ほんとうの復興」ができるかどうかの勝負です。

 みなさま、これからもご支援をよろしくおねがいいたします。



おしらせ
現地復興のシンボルとして発売予定の「福福わかめ」について


 復興わかめとして発売する予定の「福福わかめ」は、馬場中山の4軒の漁師が発売に協力する予定です。晩秋に種付けをしたワカメは順調に育っており、おいしい晩生(おくて)のワカメは3月中旬以降の発売を目標に発売する予定です。

 出荷量の概算は1.5トン。生ワカメの製品に換算して250グラム入りの袋で換算して6000袋の発売になると踏んでいます。だいたい一般家庭でひと月弱くらいの消費量になるのではないでしょうか。

 出荷量は天候や海況に大きく左右されますので収穫が終わってみないと「まったく分からない」のがワカメなのだそうですが、今のところは順調に育っているそうです。

 種付けはしたものの、港の加工施設がまだいっさいありませんので、今漁師たちはその調達に奔走しているような状況です。



[2012/01/21 00:22] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(0)

被災地ショートレポート「次の支援は商い」 

 被災直後は生きるための物資が必要となり、その後は仮設住宅の建築、並行してガレキの撤去作業など。そして現在は生計手段の回復が進んでいる。

 今やボランティアの人海戦術で対応できる仕事はないのだが、これから活躍しなければいけない職種がある。

 商売人だ。

 馬場中山地区は豊かな海産物をもたらす大平洋に面している。この海はこれからも人の生活を養っていける。

 養うというのは自給自足できるということではない。売れる商品を生んでくれるということだ。

 しかし売れるというのは「売る」という行為があってこそのものだ。なのにこの場所に商売人はいない。限界集落だから。

 これからできるだけ付加価値を高めた商品として海産物を売るためには、ちょいとそこの商売人、あなたの知恵が必要なのだ。

 肉体労働もできないし、時間もないしというわけで、これまで被災地のための活動ができなかった忙しい商売人たちよ。そろそろ出番である。ほかにもデザイナー、WEBサイトが作れる人、ものを書ける人、店を持っている人、アイデアを出せる人などなど、商売のノウハウを持っている人が必要になってくる。

 そういう人たち、そろそろ被災地の力になってみないかね。

 もちろん、タダでとは言わない。



[2011/12/17 00:00] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(0)

被災地ショートレポート「支援センター」 

 南三陸町の馬場中山集落は前回述べたような限界集落だが、避難所が解散した後もさまざまな奇跡が重なっていまだにたくさんの人の注目を集める場所になっている。

(1)200人がすし詰めになっていた避難所を見かねて国境なき医師団が新たな建物を提供した。
(2)その建物に土地を提供したのが、これ以上ないほどおおらかで親切な三浦久司さんで、避難所が解散した後は「馬場中山支援センター」となったこの建物の管理人を務めることになった。
(3)この集落の住人である千葉馨君が4月11日に集落のWEBサイトが立ち上げ、毎日無休で更新を続けてきた。怒りというものを知らぬかのような穏やかで粘りのある男である(女性は早くこういう男と結婚したほうがいい。早いもの勝ちだよ)。ちなみに彼は何の見返りもなく無給で地域への貢献としてこの活動を続けている。
(4)避難所が解散した後もこの温かな2人が中心となって各地のボランティアをつなぎ止めることになった。
(5)クラさんという豪腕のリーダーがたまたま契約会(町内会のようなもの)の会長で、震災直後の動きがひじょうに速かった
(6)そこに福井県高茂組の石塚社長や埼玉県蓮田支援隊をはじめとする建築仕事にたけた強力な支援者が現れたおかげで自主避難道「未来道」の開削という奇跡的な事業が完成した。プロレスラーのザ・デストロイヤーも支援をありがとう。忘れないぞ。
(7)NHKの特集番組の舞台として取り上げられ、「被災集落どっこい生きる」2回として結実した。これがまた支援を集める強力な広報の役割を果たした。
(8)だんだんと訪ねる人が減るかに思えた支援センターだったが11月末に蓮田支援隊により暖助ストーブが取り付けられ、冬も暖まれる場所として機能できるようになった。
(9)そんな折、またそろそろ行こうかと思っていた俺は、たまたま薪割りができる人間だった(笑)。

 すごいよねこの偶然。

 こういう奇跡が連なった果てに、今日もこの支援センターはボランティアたちと集落の人々をつなぐ窓口になっている。

 お土産にもらってきた干し柿がきょうもうまい。



[2011/12/16 00:53] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(1)

被災地ショートレポート「限界集落」 

 僻地の被災地はたんなる限界集落に戻った。

 震災以降、つかの間生じた「全員が平等な世界」と、漁師村ならではの強力な結束力。9カ月たってそれは崩れ去った。

 何をやるにも若者が足りない。勢いもアイデアも足りない。数で高齢者に圧倒されてしまう。
 被災地の表面的な悲劇に覆い隠されていた、日本という国が田舎に押しつけてきた矛盾が露わになってきてしまった。
 半年の間たくさんのボランティアに支えられ「なにか夢のようなことができる。村が復活できるのでは」とガレキの中で胸を踊らせた日々は遠ざかろうとしている。

 被災地が老い先短い田舎に戻ろうとしている。しかも、もともと短かった寿命を、さらに震災で縮めてしまった。


[2011/12/15 08:41] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(1)

集落を守るための豹変──被災半年の宮城県歌津半島・馬場中山地区(3) 

 震災から8カ月がたった。もう、こういう単純な日付による区切りにあまり意味があるとは思えないが。

 昨日も今日も明日も、まだまだ被災地の復旧作業は続いていて、それはまだ「復興」に入ったとは言えない。旧に復するだけでまだまだ何年もの時間がかかるのである。

 と小難しく書き始めてみはしたけれど、まあ、南三陸馬場中山のコーちゃんや馨ちゃんや和君、そしていつも優しい久司さんたちは今日はどうしてるのかなぁ、ということだ。コーちゃんは群馬県に出稼ぎに行くことになったらしい。


 週末、飛騨から義理の兄が到来。下呂市でもボランティアが5回以上ボランティア活動のために南三陸に入ったという。人数は15人くらいの時もあれば、この兄が行ったときのように98人だったこともあった。

 最近は素人(しろうと)でもできる復旧作業はなかなかまとまったものが見つけにくくなっているが、そんな中でワカメ養殖用の筏を固定する「土俵袋」(土嚢袋)を大量に作る作業を大人数で集中的にできたと言って喜んでいた。

 兄によると、土俵袋の必要数は南三陸町で8万袋である。土嚢袋8万枚と、それに入れる大量の土砂。とほうもない量だ。甲子園球場が4万7000席だから、全部の座席に土嚢袋を置いていって、2回分弱ということである。どんどん1列に積んだら(積めないが)1袋高さ20センチとして、高さ16キロメートルになる。とっくに成層圏だ。

 それだけの数が海の中に入っていたというのも驚きだが、何年も積み上げてきた結果の8万袋を、これまでにボランティアらの力ですでに半分の4万袋まで作ってしまったと聞いて、これにもまた驚く。


 わたしも5回にわたって長期滞在してきた南三陸町の馬場中山集落を、NHKが2回目の特集として取り上げて放映した。

NHKオンデマンド「被災集落 どっこい生きる」
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011033006SC000/


 この有料配信サービス、せっかくWEBサービスにアップロードされているのに、11月20日までしか視聴ができず以降は掲載が取り消される。まだ見ていない人は急いで。なぜこんなわけの分からない時限サービスになっているのかは不明。

 この特集は、歌津地区馬場中山集落の代表を務める阿部倉吉さん(クラさん)を主人公に、8カ月を迎える現地の復旧のさまを追ったものだ。残念なのは5月に放映された第1回の放送と前半がずいぶんかぶってしまったこと。1回目を見ていない人には必要なのは分かるけれど、繰り返しが多くてもったいなく感じた。

 番組を担当したNHKのディレクターは、わたしが現地に入って作業をしている時にもおりおりあちこちに現れて撮影をしたり作業を見守ったり住民と話している姿を見かけた。最初の取材に入って、この集落に惚れ込んでしまったと聞いている。自分も集落の避難所に棚などを寄付していて、私自身は話をすることはなかったのだが、取材の張り付きようからも気迫が伝わってきた。地元の人の口ぶりもこのNHKディレクターを信頼しているのがよく分かる。

 番組では、さまざまに変わる局面でクラさんが苦悩してきた様子と、集落がボランティアの力を得て独自に「未来道」を開削し、北海道から船の調達に成功し、漁村の復旧に一筋の光が見えてきたようすがまとめられていた。


 テレビでは「クラさんvs次々に訪れる難題」と分かりやすくまとまっている。しかし現地ではクラさんに対していろいろと疑問も出ていた。そもそもあれだけの大災害の中で200人もの人間をまとめるのだから、万事スムーズにいくはずがない。

 たとえば、物資の分配について。被災当初は、物資は避難所に届ければ、生活している者どうしで使って単純に分配ができた。分配する必要すらなかったといえる。しかし、仮設住宅に移住が終わってからは、そういう簡単な配分ができない。当然、物資の活用は遅れが出た。これは現地では不評が出た。(みんなはっきりとは言わないけれど)

 集落の住民がすでに仮設に移った後も、物資は分配されずにしばらく残った。買い物の足もない老人たちは困っているのに、米が避難所の物資置場に余っている。そういう疑問も聞くことがあった。とくに仮設住宅へ移住が終わった一時期だ。

 物資を送る側からしてみれば、被災地で誰かの役に立てばそれでいい。公平性を重んじるあまりスローで死蔵が問題化していた行政への物流に比べれば、現場に直接送り込んだ方が迅速に有益に使ってもらえる。

──とそう信じたかったわけだが、現場はそう甘くない。


 しかし、そうした疑問にも今は説明が付いている。自分なりに。

 クラさんは避難所が解散してからはたんに早いだけの分配は許さなかった。グイグイと避難所運営を引っ張っていった初期のころから、急に対応が変えてしまったようにも見えた。

 しかし、この「乱心」にも見えたクラさんの対応は、一事が万事「集落を守る」という観点から見れば一貫していたのだ。

 初期にはとにかく生き残るために少々の不公平さには目をつぶってもスピードを重視する。あるていど生活が安定したら、こんどは住民の間で不平不満が出やすい段階に入る。ここにいたっては公平性を重んじ、少しくらい供給が遅れても安易な分配はしない。

 今日明日の生活より、村の団結がだいじだからだ。団結が保たれているかぎり集落は復旧できる。番組中、登場人物が海のことを「太平洋銀行」と呼ぶ場面がある。言い得て妙だと思う。海と人をつなぐ漁業さえなんとかなれば、村は絶対に復旧できる。

 一貫した目標があれば、すぐれたリーダーは豹変したように見えることがあるという好例だ。この微妙なさじ加減を自然にやってのけるクラさんは凄いと思った。


 字面では行政による物資供給の遅れに変わらないだろう。違うのは、結果をぜんぶクラさんが引き受けているという責任感かもしれない。

 行政は分配に失敗しても実質的責任は取らずにすむ。悪くても公式謝罪でもすれば終わりだ。しかしクラさんはちがう。馬場中山で生きる以上、自分の判断で集落が崩壊すれば、一生、いや死んだ後ですらその責めを負うだろう。集落を崩壊させた最後のリーダーとして。

 行政との違いは、その覚悟の差ではなかろうか。


 さて、そろそろ2011年最後の現地訪問をいつにするか決めなければ。「木こりさん」と呼ばれた今年最後の仕事だ。



[2011/11/16 00:58] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(1)

ボランティアはもういらない──被災半年の宮城県歌津半島・馬場中山地区(2)  

 わたしが震災発生直後からお邪魔することになった宮城県の歌津半島にある馬場中山集落は、現地では

「ばんばなかやま」

と呼びます。「ばばなかやま」ではなく「ん」が入るんですね。

 いま井上ひさしの『日本語教室』(新潮新書)を読んでいたら、

《僕ら東北人は、走り幅跳びを「走りはんばとび」と言ってたんです(笑)。》

と書いてありました。というわけで「ばんば」なのですが、よそから来た人は「ばばなかやま」と読んでしまいますし、現地の人たちも外来者に対してはそう呼ぶことも多い。現地の人にきくと違和感はないそうですが、ひねくれた関西人からするとホントかなという感じですね。

 前置きはこんなところで、第2回の被災地レポートを始めたいと思います。ジャイアント馬場がかつて「じゃいあんと・ばんば」だったのかどうかは今度訪ねたときに聞いておくことにして。

────────────────────

 目で見た被災地の風景は半年たって一変しました。とにかくきれいになった。こういうところは日本の土木建設業のすごさなのですが、とにかく復旧工事がほんとうに早かったように思います。

 たとえば同じく大震災(2010年1月)に見舞われたハイチはどうか。1年後もガレキはそのまま。大統領府すら崩れたまま放置されているのがわかります。

日本赤十字社 ハイチ大地震活動報告ライブラリ「震災から1年」
http://www.jrc-haiti.jp/photo.html

 中南米最貧国と比べるなという話もありますが、ではハリケーンカトリーナの被害にあったニューオーリンズはどうか。

http://www.bo-sai.co.jp/hurricanes.htm

日本のようには進まないのが世界的な常識だといっていいと思います。

 南三陸町の役場がある志津川地区は、震災直後に訪ねたころは膨大な量の濡れたガレキの中で、自衛隊員がまだ遺体の捜索のために長い棒で水の中を突いている姿があちこちで見られました。

 「ガレキ」とニュースなどでひとことで呼び、聞いているほうも分かったような気になっていますが、今回の「ガレキ」はハンパなしろものではありませんでした。コンクリートはもちろん、自動車や船などの大型機械、鉄筋や鉄骨鉄板ブリキ板、建築物の断熱材、柱や壁そのほかの材木また材木、畳、電柱、布団、衣類、漁網、プラスチックでできた家財道具一般が、おびただしい土砂や泥と水分にまみれてぐちゃぐちゃのまま放置されているのがこの段階のガレキです。建築廃棄物と家庭ゴミと産業廃棄物がぜんぶいっしょくたになった、ひじょうにやっかいなものでした。これが地面を覆い尽くしているといっても過言ではなかった。

 それが、半年たつと大きなものは完全に取りのぞかれ、ガレキの海だったところは建物の基礎だけが残る平坦地に戻っています。そこに夏草がおおいに茂って、美しい草原みたいに見えるところすらある。

 ガレキは集落ごとに公園の跡地などに集められ、木材は木材、金属は金属、コンクリートはコンクリートとおおまかに分類されていました。信じられないくらいの作業のスピードは、悪名高い土建国家がいいほうに働いためずらしい例になりました、今回の震災からの復旧におおいに貢献していると思います。これから海外で地震が発生したら、重機とオペレーターを大量に派遣するというのもありなのではないか。

 土建会社のほかにも大いに助けになったのがボランティアでした。毎日毎日、ガレキの中でゼッケン姿のボランティアが見えるだけでも数百人単位で働き、アリのように泥を運び出し、小さなゴミを運搬していました。4月ごろはガレキの中から写真などを大切に拾い集めている姿もたくさん見ました。

 半年たって草の茂る被災地区に行っても、まだ自治体のボランティアセンターから派遣された人たちが小さな金属類を拾い集めていたりします。わたしの最後の訪問は連休を2つつなげて入ったので、とくにここ最近ではボランティアがたくさんいたのかもしれません。

 しかし、建物基礎しか残っていない中でたくさんのボランティアたちはちょっと困っているようも見えました。もうボランティア作業者にできる仕事はあまり残っていない。泥出しとか掃除とか、とにかく人海戦術でできるというような仕事は現地にはすでに残っていないのです。なんらかの技術を必要とするような仕事が現地ではすでに始まっています。たとえば漁業を再開するための船の設計作業とか、自宅再建のための建築設計だとか用地取得とか。

 被災地の復旧はおおまかに3段階に分けられます。

(1)ひたすら生き抜く(数時間から2週間ていど)
(2)避難生活の改善(数カ月。仮設住宅への入居まで)
(3)生計獲得・自宅再建(数年。生活がおおむね元にもどるまで)

(1)や(2)の段階では目的が明白です。とにかく生きる。少しでも快適に。これだけです。

 必要なのは衣食住のうち衣と食。衣のほうが先です。人間は毛のないサルなので衣類はぜったいに必要ですが、食のほうは数日間なくても死ぬことはありません。この段階では、こうした物資をどんどん被災地に送り届ければ、現地で何かの役に立ちます。役立たないなら捨ててもらってもいいというくらいの勢いでやればいい。

 「毛布はもういらない」「衣類は冬物ではなく夏物を」などと必要なものがどんどん変わっていくのもこの時期の特徴で、ボランティアに入っている人たちは、毎日変化していく現地の要望に細かく対応していくことで一種の「ドライブ感」を味わうことになります。需要と供給をマッチするためのさまざまなインターネットサービスも役に立ちました。

 この時期は目標が「生存と快適」の2つだけですから、人々も一丸となってまとまることがたやすい。言葉は悪いですが、一種のお祭り状態といえなくもありません。

 いま、仮設住宅への入居が終わった被災地では、とっくに(3)の段階に入っています。すると、単純に要望を待つだけでは現地の人の役に立つことができない。そもそもそんな単純な要望はもうありません。衣・食のつぎの住まで、とりあえずのかたちとはいえ解決しているからです。漁師、自治体職員、造船所、食堂のおかみさん、ガソリンスタンド経営など復旧する生活はひとりひとりちがいますし、知識や技術が必要になる。そうなると人海戦術というわけにはいきません。

(余談ですが、力仕事しかできないボランティアは、今は東北より和歌山県の新宮市の熊野川町に行ったほうが役に立ちます。大洪水から約ひと月たった10月2日段階で、まだ東北の震災直後を彷彿とさせるひどさでした)

 いろんな技術や知識を持った人は日本中にいて、その中で東北に何かしてあげたいという思いを持つ人はたくさんいます。しかし、大震災直後にはあれほど百花繚乱だった需要と供給のマッチングサービスも今は鳴りを潜めてしまいました。需要が「モノ」だったから、扱いやすかったのです。今は専門的な知識と技術が必要とされる、個人的な支援が必要なのです。これはたしかにマッチングがしにくい。

 しかしそういっている間に、これから職業と自宅の再建さらにはコミュニティの再構築という難題に向かう被災地は、いよいよの正念場で「やっぱり誰もいなくなった」と言いたくなるような状況にあります。

 この状況はほんとうになんとかならないものか。いちばん苦しい状況にある被災地に、最適な援助を助けるためのくふうはないものでしょうか。



[2011/10/05 01:45] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(2)

住宅移転の三陸的な困難──被災半年の宮城県歌津半島・馬場中山地区(1) 


 震災直後から南三陸町を中心とする宮城県に通い始めて半年がたちました。

 被災地した人たちにとって「半年」という区切りが特に意味を持つわけではありません。震災直後の必死の生存と生存者救出のあとは、少しでも避難所の生活を改善するための努力がつづき、仮設住宅に移ったあとは生活・生計の立て直しへと、際限なく苦労の毎日が続いていきます。

 とはいうものの、9月中旬の現地を訪れて、ひとつの画期を迎えていることを強く感じました。今回は現地の直近のレポートを含めて、これまで半年の被災地を振り返ってみたいとおもいます。以下、何回かに分けてレポートしますので、おつきあいください。

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 南三陸町の歌津半島にある馬場中山地区は太平洋に面した村落です。真東を向いた海岸線は急な斜面を駆け上がり、すぐに雑木の生い茂る山林になってしまう。

 ここはシダの葉のように深い入り江がえんえんと続くリアス式海岸のただ中です。「深い入り江」といってもほとんどの人には想像が付きにくいかもしれません。実際に走ってみると、軽トラが似合うような山間部の細道を走っていたらいきなり海岸線に出てしまったり、車でようやく狭い谷から平野部に出るかと思ったら防波堤に突き当たったりで、山地がいきなり海に沈んだ地形だとは知識として知っていても、これほど極端なものだとは思いませんでした。

 馬場(ばんば)と中山の2つの集落を合わせた馬場中山の住居はおよそ100軒。それぞれに2─3人が暮らしていたとしても、人口は300人ほどでしょう。なんとなく「東北の寒村」というイメージがわくかもしれません。

 しかし、進む高齢化や人口の減少という実態はともかくとして、現地を目で見てそういう寂れたイメージはあまり抱きませんでした。というのも、津波の被害でほとんどの住居がなくなってしまったとはいえ、残っている家々がそろってひじょうに巨大だからです。

 建坪だけでも、都市部にある手狭な住宅の2─3倍はあるでしょう。そこに広い前庭があり、田舎につきものの倉庫がある。残っている家は多くが重厚な黒い瓦屋根を持ち、壁は真っ白な漆喰で塗られています。

 現地で生活する人々の職業は、第一に漁師、そして建築関係、そして漁協・農協や役場関係の仕事が主たるところです。──みなさんそんなに金持ちなのでしょうか。

 じっさいに漁師というのはとても儲かる仕事だという話も聞きましたし、ある漁師が都会に出ようとする息子に

「年収1000万円以下なら、帰ってこい」

と諭(さと)したなんていうエピソードも聞きました。酒を飲みながら話を聞いていても、ワカメ、アワビ、ウニ、サケ、ギンザケ、ホヤ、サンマなど三陸海岸の海の幸の豊かさは尋常ではありませんし、漁業が人間の食欲という普遍の欲望に支えられていることからくる「根本的な産業的強さ」もうかがい知ることができました。

 わたし自身が属している、流行に吹かれて簡単に飛んでしまうようなファッションや雑貨の業界とはずいぶんちがいます。

 というわけで「漁師は儲かる」というのは一義的にはまちがってはいないのですが、一方で恐ろしいほどの投資が必要な産業でもあります。

 船1隻が3000万円─5000万円、網をひと張り新調するだけで300万円などという、都会で普通にサラリーマン生活を送っている人間からいうと信じられない額の投資が恒常的に必要になってきます。自転車操業という言葉がありますが、三陸の漁師の生活は「異常に大規模な自転車操業」と言っても過言ではないでしょう。それを個人経営の漁師が回しているわけですですから、今回の震災によって古い船のローンを背負ったまま新造船を造るための2重ローンが問題になるわけです。

 かなりギャンブル性が高い生活だと思いました。しかしリスクがあるからこそ生きている実感もあるし、おもしろみがある。ダイナミックな海の話を実に楽しそうに話す漁師といっしょにいると、率直にいってうらやましく思いました。だからこそ漁師を引き継ぐ若者が少なからずいるのでしょう。

 現地の人によると、そんな土地柄なので、家も競い合って大きなものを建てる傾向があるのだそうです(田舎によくある傾向ですが)。しかも、恒常的に借金に慣れている(というとギャンブル狂いみたいで語弊がありますが、収入も支出もダイナミックに多いということです)人たちですから、総じて屋敷が立派になっていくのもむべなるかな、です。

 その三陸的なダイナミックさが、今回の復旧の足かせとなってしまった。

 漁船の復旧のための2重ローンについては書きましたが、屋敷が総じて大きなため、建て直しはもちろん、土地を確保するのがたいへんなのです。9割を超える家が流失した馬場中山地区では、100軒の家を建てられる場所をなんとか裏山に確保しようとしていますが、ひじょうに難しい。

 そもそも山が海に迫っている土地ですので、宅地に利用可能な場所というのは限られています。仕事が海にまつわるものが多いからこそみんな海岸沿いに住んでいたのですが、そこに住めないとなっては、山に上がるしかない。しかしその山は急峻で、これまでまったく宅地になったことがない土地です。

 馬場中山地区では震災直後から地元契約会(町内会とは別の互助組織)の会長がリーダーシップを発揮してあらたな集落の開拓を決断し、地元の地権者との交渉をとおして用地を獲得してきましたが、今になっても集落がどこに移転するのかははっきりしていないのが現状です。

 そもそも100軒もの家、それも豪邸の部類に入るような屋敷を、仮設住宅のいちおうの入居期限である2─3年のうちに建てることができるのか。ハウスメーカーお得意の即席住宅ならともかく、大工の確保を考えただけでも、どう考えても不可能だろうという想像がつきます。

 場所はもちろんのこと、家の造りやたたずまいにしても、もとのままの馬場中山地区に戻すのは少なくとも数年という単位では絶対に無理なのです。

 豊かな東北の漁村だった馬場中山は、5年後にどんな形になっているのか。現地の誰にもまだ想像がつかないし、未来予想図は描けていません。


[2011/09/30 21:21] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(1)

雨・雨・雨 

 19日は朝から未来道の伐採作業。未来道はこれまでのボランティアと地元の人たちの作業で開通はしているのだが、細かい作業が後回しになっている。大径木は道路の開削のために本職の伐採業者が切り倒しているのだけど、細い木は重機でなぎ倒してそのまま道路脇に放置されている。

 こういう木を細かく切って燃料として使いやすく、腐りやすくしておくのである。

 馬場中山生活センターのある歌津半島は、三陸海岸沿いを南三陸町から気仙沼方面へと走る国道45号線から大きく大平洋に向かって張り出している。このため、津波を受けたあとは道路が寸断されて内陸部との縁が切れてしまい、支援が遅れた。未来道プロジェクトは海岸部を通らずに内陸部へつながる道をあらたに造っている。道路が砂利道であるところを除けば完成していて、いつでも避難道として使える状態にある。

 1.3キロにわたる土地の地権者は、ほぼ全員が自分の土地を二つ返事で無償提供している。その地権者の志に報いるためにも、あまり路肩を乱れた状態にしたくないので、そのお手伝いが今回の主な仕事である。

 マツや広葉樹がほとんど。20センチ内外の木をどんどん切り倒し、細かく刻んで積み上げる。

 午後は鍼灸院での治療を終えたナガオカ君を石巻まで送っていく。朝6時半から営業していた治療院は15人くらいの患者さんが訪れ、大忙しの大盛況になったそうだ。

 こんなに大量の患者を診たのはナガオカ君も初めてのこと。治療に来た人たちの嬉しそうな顔を見ると、手に職のある人はいいなと思う。こういう場所に来ると技術者のありがたさが身に染みてわかる。

 ガレキが少なくなった石巻市街地を走り、駅でお別れ。ごくろうさんでした。

 帰りの車で寝そうになったので志津川の手前で30分くらい路肩で寝た。

 この夜もナベちゃんが痛飲。前夜のウイスキーがなくなる。就寝は0230時ごろ。朝方雨が強まる。


 20日(火)。

 朝4時にナベちゃんを山田さんが石巻まで送っていく。ナベちゃんは起床時刻になってもぜんぜん目を覚まさず、大いびき。馬場中山ホームページ担当の馨ちゃんにまずい写真をたくさん撮られる。

 1日中雨。仕事は何もできない。午後までタープで過ごしていたけれど、いよいよ台風がこちらに向かうことが確実になってきたので野営を断念して生活センターの通称「大奥」に荷物を運び込んだ。

 とにかく時間をつぶすしかない。

 21日(水)。

 台風がいよいよ直撃。兵庫県の自宅は早くも床下浸水が迫っているとのこと。バイクや車を動かしたりと大わらわだった。

 センターで台風情報を追っかけながら、お茶を飲んでブログの更新などの作業をするしかない。

 せっかく持って来た釣り道具もこの分では使えるのかどうか分からなくなってきたなあ。

 夜が近づくにつれて東京で交通が麻痺しているのがテレビで報じられはじめ、渋谷の駅などの大行列が映し出される。

 大震災当日のことを思い出した。

 2100時ごろピークになったけれど、風雨はそれ以降あっというまに弱まった。


[2011/09/23 01:29] 東日本大震災特集 | TB(0) | CM(0)



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