上旬は6日までフィリピンルソン島北部ツアーでマニラから北部の避暑都市バギオ、世界遺産ライステラスのイフガオなどをバスで走り回り、18日、19日は香港に商用で出張、20日から23日までは韓国のカワウソ調査で山中をレンタカーと徒歩でうろつき回り、帰ってきた24日には列車で飛騨行きと、陸・海・空今月はどうやら1万キロくらい移動した。 今月はとことん乗り物に縁があるようで27日は三木鉄道に乗る。この鉄道は本日3月31日で廃線になってしまう。 旧友のユージといっしょである。昔からの鉄道好きで、さまざまなタイプの「鉄っちゃん」のなかでは「乗り鉄」に分類される。鉄道以外にも交通関係一般にやたら詳しく、交通機関を切り口に世の中の不思議を理解していく、そういう友人である。社会一般への趣味が昂じて中学校の社会科教師になった。あっぱれ天職というべきであろう。 厄神駅に集合。そのユージのレクチャーを聞きつつ16時58分発の三木駅行きに乗る。 廃線は悲しいが、ユージによると「学生も乗らない、年よりも乗らない路線がいままで生き残ってきたほうが不思議」なくらいだという。なるほどそうだ。線路に沿って幹線道路が走っているため、自動車があればこのたった乗車13分の区間を移動するのは10分もかかなない。自転車だってどうってことない距離である。ウィキペディアを見ると、日本でも2番目に営業距離の短い鉄道らしい。 厄神駅を発車すると、加速するのはほんの短い時間だけ。駅間の距離が短いからだ。だいたい1分半ごとに駅に着く。時速40キロくらいだろうか。駅は古い木造駅とプレハブの新造駅がほぼ交互に現れる。「三木鉄道ありがとう」というのぼりが立っている。 お別れのご祝儀相場で混雑した車両はなかなか快適な調度である。座席もフカフカだ。カメラを下げた鉄道ファンが多く、録音機まで用意した人もいる。車窓からは三木鉄道の姿をカメラに納める「撮り鉄」の姿があちこちに見える。鉄道というのはほんとうにファンが多い。ウィキペディアの「鉄道ファン」の記述は相当長いのである。 田園地帯を走ってきた列車ですらないワンマンカーは三木の市街地に突入してこれまた古い木造の駅舎の前に滑り込んだ。 駅前には古いサクラが今年も芽をほころばせているのだが、このサクラが満開になるころには駅の主はすでにないのである。 ユージは子どものころに愛する別府鉄道を廃線で失っている。「別府鉄道とおんなじや」といって教えてくれたのが、三木駅構内の線路沿いにある吹き抜けの建物。現在は自転車置き場として使われているが、おそらく昔は荷物の集荷場だったんじゃないか、という読みはさすがに正しかった。建物のハリに「北海道」「●●商事」「発」(おそらく出荷の意)などと書いてある。東京の次には「三条」という文字があり、刃物の名産地である三木と日本海の雄新潟県の三条市との結びつきがしのばれる。 北海道、三条という文字はわたし個人にとって感慨深い。わたしの先祖は三木の刃物屋で、北海道の開拓期に農業用の刃物を売って大もうけをしたらしいのだ。毎回北海道に行ったら札幌で豪遊していたという。三木の刃物はカマやノコギリなど農耕用の刃物や大工道具が多く、日本の農業がまだ盛んだったころには重宝されたのである。かつては大阪の堺、新潟の燕・三条、兵庫三木、それぞれ日本刀や包丁、銀食器、農業用刃物、大工道具と特色が際立っていた。私の父も同じ金物を扱う仕事をしており、昔から三条市への出張が多かったのである。 集荷場の柱は太く、きちんと金物で補強されている。重量物を大量に出荷するため頑丈な建物が必要で、金物が豊富だったこの街の歴史を物語っている。 駅を出て神戸電鉄の三木駅まで歩く。15分くらいかかるので、乗り換えにはめんどうな距離だ。これがつながっていれば三木鉄道にもまだいくばくかの望みはあったかもしれないと思うが、実際にはそれも厳しいであろう。集荷場からみるだけでも三木鉄道は貨物の取り扱いが多かったことを思わせるのだが、三木の刃物産業が凋落をたどり貨物・人とも移動が減ったこと、輸送手段の中心が鉄道から自動車にシフトしたこと、すべてが三木鉄道には厳しい状態になっていた。厄神駅で国鉄と接続していて金物の運送に便利だったのが、おもに運ぶのが人になってしまうと直接神戸に出られる神戸電鉄にはかなうまい。 三木の街は商店の看板や屋号どこを見ても「刃物卸」「刃物製造」など刃物一色である。粋な古い旅館もあり、往時は繁盛したのだろう。 日本は自動車で物を運ぶようになってしまい、物の輸送過程をほとんど見ることがない。すさまじいドア・トゥー・ドア&ジャスト・オン・タイムのシステム構築力である。宅配便などほとんど荷物を「電送」しているように感じることすらある。映画「ザ・フライ」は物体の電送機械に人間が入ったところ、ハエが機械に紛れ込んでいたことからハエ人間ができてしまうのであるが、あんな機械もう発明する必要ないのではないか、とすら思う。クロネコとサガワでじゅうぶんである。 荷物の運搬について思うこと。 外国を旅行していると物が人間といっしょに運ばれているのを見るのがとてもおもしろい。パラグアイでもフィリピンでも中国でも、人々は重い荷物を平気で手で運ぶし、バスや船、列車もその能力の限界まで人と荷物を積んで走っている。重いものを運んだり荷卸しをしたりしている人間というのはとても絵になるのだが、日本の町を旅して写真を撮ってもいまいち絵にならないのはそういう人々の力技や身のこなしが見られなくなってしまっているからでもある。 写真を専門にしている友人に「日本って絵にならんよな」と言ったら「それは撮り方やろ」と言われたが、肉体の躍動感がなくなった日本は、私にとっては明らかにおもしろくない風景である。写真機は構図など理屈で説明できる部分もあるのだが、それは後付け。いい写真というのは瞬発的に撮影されたものが多い。木村伊兵衛賞を最近受けた梅佳代の『うめめ』などを見ても、体で撮っているのがよく分かる。いちいち考えて撮っていてはあんなインパクトのある写真は撮れない。とくにスナップというのは難しいのである。それに比べると風景写真は簡単。 体で感じて撮る写真が日本では撮りにくくなっていると思うのである。鍛冶屋の火花も消え、重い金物を力まかせに運んできた鉄道も消える。 今年は桜よりひと足早く三木鉄道が散るのである。 追記:感慨とともに往復2時間弱の旅を終えて厄神駅に戻ってきたら、駅の駐輪場に置いていたバイクが盗まれていた。3台あるバイクの中でもいちばん大事にしていたホンダのCD125T。キーを付けたままだったのである。痛恨事とともに忘れられぬ三木鉄道の旅になった。目撃したかたはぜひともご連絡をいただきたい。薄謝ながら御礼を進呈いたす所存です。ナンバーは「ひ912」。 (2008年4月27日の追記) 上で触れたバイクが、このほど発見されました。探してくださったみなさんどうもありがとうございました。おかげさまでウインカーとクラッチレバーなどこまかい部品が外されていたのみで、4万円ほどでもとどおりに修理できました。
現地たった2日間のカワウソ調査は大成功。これまでにないほどの鮮明な生態映像が撮影できたのである。 今回はこれまでで最強のハンドライトを導入したのだが、このライトの破壊力たるやすさまじく、手持ちなのに高級外車のヘッドライトの何倍もの強さで発光する。持続時間は1時間半ある。 これまで米軍がライフルの銃身に付けて夜の野戦で使うというSureFireのライトや、大型の懐中電灯などさまざまな照明器具を模索してきたが、まるで真昼と見まごうような明るさが手に入るようになったのである。製造元の日本探索光研(http://www.search-light.jp/)には満腔の敬意と謝意を表したい。本来は災害救助現場でのサーチライトとか、そういう現場系の照明として使われるもののようだ。 カワウソの調査ってどういうことをやるのかよくごぞんじないであろう。日本にいないんだから当たり前なので、簡単にご説明申し上げる。 目的はカワウソの生態を明らかにすることである。ニホンカワウソで調査ができない以上、いちばん近い場所に棲み分類的にも亜種以下の差しかない韓国のユーラシアカワウソを調査するのがもっともいい。韓国にはまだ生息地がたくさんあり、現在は保護政策もあいまって生息頭数が増加傾向にある。あるメジャーな川の、ダム湖に流れ込む支流で調査を繰り返してきた。 カワウソはほかのほとんどの哺乳動物と同じく夜行性である。昼間の調査では前夜のカワウソの行動を「痕跡」によって推理する。痕跡というのはつまり足跡とフンだ。 足跡の大きさからカワウソのサイズ、歩いた方向、連れがいたか、など行動している個体について情報を蒐集する。またフンからはどこで何を食べたか、フンの鮮度を見てどの時刻にその場所でフンをしたか、などさまざまな情報を得る。フンはどうやらイヌの小便と同じく他の個体に対するサインの役割も果たしているようなので、どういう意味があるかも考える。フンといっしょに「オッターマウンド」という小さな砂山を作ることも多い。これはなぜ作るのかよく分からないのだが。 数人で川の一定区間を分担して痕跡情報を集め、その分布を見て現在(つまり調査をしている昼間)カワウソがどのあたりで休息しているかを推定。この推定に基づいて、夜の目視観察に入る。 夜の目視観察は直接カワウソを観察して、さらに具体的な行動情報を得る。撮影をしたり、その夜の何時にどこに現れたかなどの情報を得るのがこの夜間観察の役割だ。しかしこれが苦行である。出てくるか出てこないか分からないカワウソを、橋の上などでカメラを構えて身じろぎもせずに待ち続けなければならない。韓国の山中は日本の飛騨地方くらいの寒さになり、川が凍ることもある。いくらダウンジャケットを着込んでも体温はどんどん奪われていく。 夜間観察の難しいのは、ライトで追いまわす観察になるため、カワウソの行動に人間が影響を及ぼしてしまう点だ。しかし、撮影のためにはライティングは不可欠である。 今回の調査では1日目に狭い区間に痕跡が集中していたため、すぐにカワウソの行動区間が特定できた。4人のメンバーが二手に分かれ、いちばん可能性の高い区間を上流と下流で挟み撃ちするように待ち受けたのである。案の定、日が暮れてまもない7時20分ごろ、一頭のカワウソが上流から下流に向かって下りてきた。発見したら携帯電話で連絡を取り合って、自動車で1カ所に移動する。撮影をしながらカワウソの追跡を開始する。 いくらライトが明るいといっても、数百メートル先のカワウソは闇の中でポツリと目が光るだけである。真っ暗な川を双眼鏡でのぞき込み、スウと流れる光を見つけるのがまず第一の仕事。今回投入したライカの双眼鏡は小口径ながらヌケがとてもよく、威力を発揮。いちはやくカワウソを発見してメンバーをうらやましがらせた。 現れたカワウソはひじょうな自信家で、橋の上から強烈なライト数発で照らしていてもほとんど気にせずに橋の下を通過した。双眼鏡で見ていると、眼下の水中を泳ぎ去るカワウソの毛が水にたなびいているのまで見えるのである。まるで水族館みたいであった。まだカワウソを目視したことのなかったメンバー(わたしよりカワウソ歴は長いんだけど)は興奮しきり。わたしもこれほどくっきりと観察したことはなかったので感動であった。 超強力ライトと図太いカワウソの登場、そしてなによりこれまで20年間にわたる調査の積み重ねにより、長時間にわたって生態を撮影することができたのであった。超短期間の弾丸調査行でこれほどの撮影をすることができたのはほんとうに幸運だった。 哺乳動物の観察というのは、日本ではあまりはやらない趣味だけれど、動物や植物を切り口に世の中を理解する向きにはぜひおすすめしたい。なかでもカワウソはじつにおもしろい。なぜかって、観察が比較的簡単だからだ(韓国に行けばね)。 カワウソは基本的に水辺しか移動しないので、川沿いに歩いていればさまざまな情報が得られる。なかでもフンを見つけることなどはひじょうに簡単である。仲間へのサインの意味があるからか、川のなかでもいちばん目立つ場所、たとえば馬の背のように盛り上がった石の上だとか、気持ちのよさそうな砂地だとか、そういう場所に選んでフンを残すのだ。 水辺だから足跡も見つけやすい。山を歩いている動物はたまたま柔らかい場所を歩いてくれないかぎり足跡は残らないが、カワウソの場合砂や泥に上陸すればすべての足跡がなんらかの形で残る。しかもお気に入りの場所は繰り返し使ってくれる。たとえぼんやりとした足跡ではあってもサイズから大人・子どもの区別はつく。前日に調査者が付けた足跡の上をカワウソが歩いていたこともこれまでなんどかあった。そういう頻度で見つかるのである。 毎日新しい発見があるのがカワウソ調査のおもしろさ。目が慣れてくるとますます痕跡が見つかるようになり、カワウソに肉薄しているのが感じられる。いちばん難しいのが巣穴とか、寝屋を見つけることで、これはまだ果たせていないのだが、これが見つかるとさらにカワウソの生態がはっきりしてくるとおもう。 また野望に一歩近づいた。
在外邦人という人たちというのがどういう存在かお分かりだろうか。分かってもらえているのかいまいち心もとない。 移民X世という言葉があって、海外に移民した当の本人が1世、その子が2世である。明治時代から日本は海外にたくさんの移民を送り出してきたから、彼らの子どもたちはいまや5世とか6世くらいになっている。今の法律では他国籍でも日本で単純労働に就けるのは、この日系人たちだけである。「ブラジル人」などと言われつつ、ちかい先祖に日本人がいるのである。 そうい人たちはの境遇は自分とは遠いと思っておられるであろう。わたしもフィリピンで働いていたころ、自分が「移民X世」になる可能性があるとは思っていなかった。 しかし、わたしはフィリピンで働き出したその時から「日系移民1世候補」だったのである。現地に長く住んで子どもを作ったら、2世のできあがり。この事実に気づきにくいのは、移民1世という言い方は移住した当の本人に対してはあまり使われず、2世・3世が生まれてきてからはじめて遡及的に使われることが多い言からだ。 海外に留学していたあなた。駐在して仕事をしていたあなたもみんな一緒である。移民1世候補だったのだ。帰ってきちゃったから単なる日本人に戻っているけど。 そうすると、ブラジル移民や日系労働者にもにわかに共感が涌いてくるでしょ。 今回一緒にフィリピンに行った人たちは親がフィリピンに住んでいたため、生まれた場所がフィリピンである。約20人のほぼ全員がフィリピン生まれだった。そのままフィリピンに住んでいれば2世になった人たちである。 住んでいたのはマニラだけではない。明治・大正時代の日本人のバイタリティはすさまじく、鎖国から開放されたと思ったらまさに雲霞のごとく国外のあちこちに浸透し生活・事業を始めている。フィリピンの田舎まで行き渡り、鉱山労働や建築工事、「ABCバザー」などと「バザー」いう名前がよく付けられた中小商社などを興している。だからフィリピン生まれといっても全員がマニラ生まれではなく、ルソン島北部のラワッグ市(知らんよね)など田舎生まれの人もいるし、セブ生まれの人もいるのである。 敗戦を機に日本に帰ってきてしまったのでたんなる日本人のおじいさん、おばあさんに戻っているが、ほんとうは日系人と呼ばれる可能性があった人たちなのである。ここにまず1つ目の理解の断層があるだろう。 もう1つの断層は、この人たちは少年・少女期をフィリピンで過ごしているので、心性がちょっと日本人とは違うということだ。 戦前にフィリピンで生まれたみなさんは、親がフィリピンで事業を興して成功者だった人も多く、当時の日本の水準からは考えられないような「ゴージャス」な生活を享受した経験を持っている。戦前にカラー映画を見(日本で「総天然色」が普通に見られるようになったのは戦後)、マニラの日本人学校に馬車で通っていたという人もいる。もちろん「乳母や女中がいた」という人も多い。日本では男の子はみんな丸坊主の時代だが、フィリピンで生活していたため、みんな長髪だった。「丸坊主は囚人の髪形」だからである。 「乳母や女中」はもちろんフィリピン人である。いちばん長い人で17歳までの多感な時期をフィリピンで過ごし、タガログ語(フィリピノ語)を話せるようになっている。教わったフィリピン語ではなく、日常生活で体に浸透していったようなタガログ語である。 「育ち」は争えず、70歳、80歳になる今でも、女性はあきらかに同世代の一般的女性の水準よりはオシャレでセンスがいいし、男性は朗らかでよくしゃべり、歌やダンスが好きだったりして南国的である。 米海軍が比島を奪回するために再攻撃を開始してから日本軍の悲惨な戦いが始まったわけだが、在留邦人のみなさんはまだ子どもだった。降って沸いたようにアメリカに攻めてこられたわけである。在留邦人は餓死寸前で山をさまよったあげく、ふるさとのフィリピンを追われて日本に帰ったのである。 そのせいだろう。在留邦人のみなさんは「慰霊ツアー」とはいえ、旅路を常に笑顔で楽しんでおられる。両親や兄弟を失ったとはいえ、生まれ育った地に帰ってきた、という喜びが隠しようもない。沈痛な慰霊祭でのおももちと、旅路を楽しむありさまのコントラストが強いのですね。雑貨店で嬉々として現地産のバナナを「これはラカタン、これは……」などと品種をあらためて買い求める姿や、マニラ日本人小学校での経験を語るときの盛り上がり、フィリピン料理に舌鼓を打つ表情。楽しくて仕方がないといった風情だ。楽しい同窓会的のフィリピン旅行みたいな雰囲気すらする。 みなさん、フィリピン人や米兵と直接兵隊として闘ってはいないというのも大きいだろう。日本軍の通訳などとして働いた人はあったが、フィリピン人や米兵と直接戦ってはいないのである。だからこそフィリピンでの幼少期の思い出がちゃんと美しいままに保存されているのだと思う。 旧日本兵の生き残りの人たちの慰霊ツアーは、もうすこし「沈痛の度合い」が高いだろうと思う。フィリピンに楽しかった思い出はほとんどなかったろうし、あったにしてもそれを塗り替えてあまりある悲惨な体験をしているだろうからだ。戦友の慰霊に後半生を賭けるような人もいるし、何十回慰霊の旅に来たかもう分からなくなってしまった、という人もいるのである。 ひとくちにフィリピンでの戦争とはいえ、日本人の中でも受け止めかたはいろいろである。
もう春だというのにストーブがやってきた。あこがれの薪ストーブである。 薪ストーブ。 この甘美な響き。薪を室内で直接燃やすという、どこか先祖返り的な家の重鎮たる暖房器具である。ついにこれを手に入れた。 かかった費用は7100円。71万円の間違いではなく。ただしくは7113円である。そういう薪ストーブがあるのですよ。その名も、時計型ストーブという。 上から見ると振り子式壁掛け時計のような形をしているので、その名がついた。ブリキもしくはステンレスでできていて、薪ストーブとしては破格の値段で手に入るのだ。よく知られたホンマ製作所のWebサイトを見れば信じてもらえるでしょう。ブリキより耐久性のあるAS60というステンレス機を処分価格で売っているサイトから7100円(送料込み)で買った。 本体より煙突+煙突工事費の方がずっと高いのであるが、部屋にもともとあった換気扇の取り付け穴を流用したので壁をぶち抜く必要もなかった。というようなわけで、本体・工事費すべて含めて5万円くらいで薪ストーブ生活が始められたのだ。 こまかい紙ゴミなんかこれでいっさいおさらばである。タバコの吸い殻なんかもどんどん放り込んで燃料にしてしまえばいい。今夜は暖かいのでそれも燃やさずにすんでいる。薪を多めに放り込むととんでもない熱量を発して部屋の温度を一気に25度くらいまで持っていく能力がある。本体が薄い鉄板なので真っ赤になるのが恐ろしくもあるが、先日まで電気ストーブ1台と湯たんぽしかなく室温5度に震えていたのが一気に快適になった。 薪ストーブのネックは燃料の確保だけれど、これはイヌの散歩を兼ねて近所の日岡山まで歩き、倒木のあまり腐っていないのを持って帰ったり、建築廃材を調達してきたりして当座を確保している。ほんとうは次の冬のための燃料を調達すべき時期なんだけれど、まあとりあえずである。 今のご時世倒木なんかわざわざ喜んで持って帰る人はいないから、競争率はゼロに近い。薪の調達が難しいから薪ストーブの導入を悩んでいる方、ちょっとした山なんか身の回りにないですか?ほんとうにないですか?神社や寺のそばにはありませんか。林床がきれいになれば神社やお寺も喜ぶはずですよ。 あとは川原。ここは流木の宝庫。台風や大雨の後はチェック。ひんぱんに川を見ていれば、どの場所に流木が集まりやすいか分かるようになる。川のカーブしたところや流れのよどんでいるところが狙い目。ここを出水の後に狙い撃ちすると、労せずして大量の木材が手に入る。 流木の質を見ればどんな木が上流に生えているか分かったりします。四万十川では大洪水を橋から見下ろしていると、家が何軒も立つような量の丸太がほんの短時間でずんどこずんどこ流れ去っていくのがたいへんな壮観でしたが、加古川本流はあまり針葉樹が流れてこないですね。でも針葉樹じゃないほうがいいです、薪ストーブの燃料は。針葉樹は勢いよく燃えますが、ほんとうに火もちが悪い。広葉樹を重点的に集めるようにしましょう。 大量の樹木を切るところとしては街路樹を伐採する現場などがあります。自治体に問い合わせれば分かるでしょう。どっちみち廃棄されているでしょうから、理由をいえば快くわけてくれるのではないでしょうか(イチョウの木は要注意。絶望的に燃えません)。 調達で案外問題になるのは運搬方法。軽トラがあればいちばんいいのですが、本当は。先日車を購入する話を書きましたが、まだないので誰かリヤカーを譲ってくれる人はいないか探しているしだい。これだとバイクの後ろにくくり付けて大量のものを運搬できる。そういう使い方も見越しておっさんバイクのホンダCD「ベンリィ」125ccを所有しているのである。リヤカーって新品で買うととても高いんですよ。6─7万円もします。オンボロの軽トラなら10万円くらいであるのに……。 とまれ、近ごろは山の木なんかを燃料として使う人はいないので、木材の調達というのはちょっと工夫すればラクなのではないかと思う。韓国などに行くと集落近くの林は燃料になりそうなものがいっさいないといっていいほどしっかり利用されている。かの地ではオンドルがあるからね。燃料としての薪炭や柴(死語に近いですねこれ)にまだまだ需要があって林がしっかり使われ、おかげで里山は日本よりずっと里山らしい風景をたもっている。 これに比べれば「薪集めがたいへんで……」というのは、工夫しだいといったところだと思う。あとは人脈ですね。軽トラを貸してくれたり、廃材の出そうなところを教えてくれたり。そういう人脈。こんな時に田舎住まいの魅力が出てきます。 さて来冬に備えて大量の薪をどう確保するか、急がないとこれから初夏にかけて樹木が大量の水分を含む季節に入ってしまう。忙しい忙しい。
フィリピンから帰ってきたとたんに、訪問してきたルソン島中部にあるヌエバエシハ州カバナツアンで日本人が殺された。いや、帰ってきたのは6日だったから、じつは滞在中に日本人が射殺されていたことになる。 日本でも報道されるフィリピンのニュースはこういう「暗部」ばかりになってきている。どうやらスモーキーマウンテンが有名になってからというもの、日本の活字・写真メディアを問わず紹介されるフィリピンのイメージがマイナスイメージに固定化されてきたようだ。 人がゴミの海にいるような写真を見て「あ、フィリピンだな」と思うときっとフィリピンである。そういうイメージしか読者が抱かなくなっているし、フィリピンのニュースで一般読者のイメージに合わないものを書いても撮影しても、編集段階ではねられてもいるのだろう。 かくて、日本に報道されるのはこういったマイナスイメージの写真+邦人殺害事件のみ、ということになる。 じつはマニラにコールセンターが増設されてさらに中間所得層が増えていたり、それに同調しておしゃれなスポーツとしてバドミントンが流行したりといろんな動きがあるのだが、それは日本人の興味の対象外になってしまっている。 めちゃくちゃな汚職が露見してもクーデターが起きても、けっきょくは一歩も進まない停滞感のせいで、国際的に見放されつつあるのも事実だけど。 今回のフィリピン訪問で私が同行したのは70歳から80歳の方である。つまり、日本の版図が西大平洋全域にまたがっていた時代を生きた人である。ガダルカナル島とか、ミッドウェー諸島とか、の時代ですね。こういった地名に関連情報を持たない私と、ラジオや新聞や日常会話で聞いていた世代とが一緒に旅することになったわけだ。 マニラを出発した29日には、戦前に「在外指定マニラ日本人小学校」だった校舎を訪問する。戦災を免れ、さいきんまでその面影をとどめていた。数年前まで学校の校舎としてつかわれていたが、今回訪れてみるとほぼ廃屋と化している。マニラでは上陸してきた米軍と日本軍の壮絶な市街戦があったのだが、この日本人学校が残ったのはちかくのサントトマス大学に米軍の捕虜が収容されていたため、米軍の艦砲射撃の標的にされなかったからだそうだ。 教室に入ると 「わしは背が低かったからいつもこの辺にすわってたよ」 と話す男性。 「雨の日にはここでお手玉したりね……」 と廊下を指さすおばあさんもいる。 2階に上がって、これがおそらく最後になるだろう学校での校歌斉唱。Webに掲載されていることもなかろうと思うので、記録のため以下に掲載しておきます。歌自体も録音したが、ブログにはアップできないので、これはまた他の場所で。 ──────────────────── マニラ日本人小学校校歌(河野辰二作詞、宮嶋慎三郎作曲) 一 黒潮南にさわげども 日の本つ国ゆるぎなく 君の稜威(みいつ)を仰ぐとき 国民永遠(くにたみとわ)に力あり 二 灼熱荒野を焦せども 図南(となん)の翼たわみなく 真紅の御旗(みはた)かかぐとき 我等の意気のいや高し 三 故国千里をへだつれど 大和桜(やまとざくら)の香はきよく 国史の榮(はえ)をうたうとき 学窓(がくそう)つねに風薫る ──────────────────── マニラを離れ、バスで北を目指す。途中、パンパンガ州マバラカットの特攻隊慰霊碑で慰霊祭を開く。初の神風特攻隊が飛び立ったのがこのマバラカット基地だった。特攻隊敷島隊の隊長・関行男大尉はここから飛んで米軍空母に突撃し、軍神となった。 実はこの特攻隊慰霊碑は、フィリピン人の「愛国的ふがいなさ」をただそうと、フィリピン人歴史家の尽力によって立てられたというめずらしい経歴がある。もっとも、慰霊祭に参拝するのは日本人ばかりである。 戦闘帽をなびかせた格好のいい特攻兵像は、特攻隊を扱った映画「ウィンズ・オブ・ゴッド」に主演した俳優の今井雅之(監督も)に似せて作られている。 戦争について考えるのだが、兵士として戦った人たちは、自分たちが信じて裏切られた戦争で戦友を失った。それだけ経験も記憶もドラマチックである。しかしたんに親の仕事を理由にフィリピンに住んでいた人たちにとっては、戦争とはなんだったのだろうか。わけが分からないままに戦争に巻き込まれ、たくさんの子どもたちが死んでいったわけである。 前線で爆弾にはじきとばされて死んでいった兵士と、山中で逃げまどって栄養失調と病気で倒れていった子どもたち。やはり元兵士のほうがフィリピンへの思いは強烈らしい。フィリピンに何度も何度も慰霊にやってくるのは、戦友をうしなった元兵士が多いらしい。 「元兵士の人は慰霊にかける思いが違う」 と今回のツアーを組んだ慰霊専門旅行代理店、PICの倉津幸代さんも言う。中には「自分が生き残ったのは慰霊をするため」と断言する人もいるそうだ。 だが、1人の人間を襲った運命の残酷さとしてはどちらが上なのだろうか。まったく人生をまったく選べないうちに死んでいった子どもたちのほうが残酷な運命を強いられたとはいえまいか。 一路、山中の避暑都市バギオへ。在留日本人たちが逃げ場を求めた山中に入っていく。
毎年4月の第1日曜日にはフィリピン関連の遺族や元兵士たちが集まる比島観音例大祭が愛知県幡豆町の三ケ根山で例年開かれる。フィリピンの方を向いて立つ観音像の足下での戦没者たちの慰霊祭。参加者はさすがに減ってきたが、比島戦で亡くなった人の数は「51万余」人と言われるだけあって、まだ数百人の参加者がある。  2007年には、この比島観音例大祭のあと、「憲友慰霊のつどい」というフィリピンの元憲兵たちのサークルの「最後の会合」が開かれ、同席させていただいた。 三ケ根山にほど近い西浦温泉に宿泊して酒を酌み交わし、陸軍中野学校やフィリピン現地での訓練兵時代の思い出話に花を咲かせる。はた目にはご老人たちが温泉に入って酒を飲んでいるだけのツアーだ。しかしおもしろいのは、たまさか宿の女中がフィリピン人だと判明したときのことで。さすが元憲兵の秀才ばかり、90歳を越えるおじいさんたちがいきなり流暢な英語で話しだすのである。 よく短期の語学留学をしてきた学生によくある、やたら発音だけうまく単語力にとぼしい英語ではない。ポライトで、地に足のついた単語力を備えた英語であった。 90歳を越える人たちの会話であるから、体調思わしくなく集いに参加できなかったメンバーのことを 「88歳で老齢のため参加できずってのはおこがましいやな」 「ほんとだよ」 などという信じがたい会話も聞かれる。 参加者の中に岡村甫一さんという方がおられた。クマのような大きな体を杖で支えた、濃い眉が目立つやさしい風貌のおじいさんである。この憲友のつどいのために遠く熊本県から大阪での1泊を経由してやって来た。昭和15年に21歳で中野学校に入学したというから、御歳88あたりであったろう。  この岡村さんが参加していた戦争関連の団体には、比島憲友会(2000年ごろ解散)、近衛1連隊中隊会(2005年解散)、憲兵学校7期生会(2005年解散)があった。そして最後になったこの「憲友慰霊のつどい」も2007年で終わろうとしている。「やっぱり一緒に勉強した中野学校の同期生がいちばん仲がよかった。しかし何もかも終わってしまった」と優しい目で語る。 その岡村さんも、この集いが最後となった昨年暮れ、亡くなった。 そういうツアーがあること自体われわれの世代にはあまり知られてはいないが、「戦跡慰霊」という旅行の形態がある。第2次世界大戦で各地の戦場に散った戦友を弔うため、生き残った戦友がえんえんと続けている。つまり、フィリピンならフィリピンの、かつて自分たちが米兵や現地のゲリラ兵と死闘をくりひろげた戦場そのもの(たいていとんでもない田舎である)を訪れ、戦友が散ったその場所に花を供え、卒塔婆を立てて慰霊祭をするのである。かつてはこの戦跡慰霊ツアー(ツアーといっても、旅の形態からしてパックツアーではない)だけでそうとうな旅行者数になっていた。 しかし兵士として現場で闘った人たちというのは戦時中にたいてい20歳以上であり、2008年にはすでに83歳以上ということになる。とてもじゃないが東南アジアの戦地を再訪問する旅行に耐えられない年齢になってきている。 2月28日から3月6日までの8日間で70─80歳の「ちょっと若め」のご老体ばかり20人とルソン島北部の戦場を巡る旅をしてきた。サークルの名前を「マニラ会」という。この会の特徴は戦争中に兵隊ではなく、現地に住んでいる一般日本人だったということだ。ほとんどがフィリピン生まれ。両親がフィリピンに渡って事業を始めた家に生まれた人が多い。造船屋、ガラス屋、海水浴場経営者、鉱山労働者、商社の現地駐在員──。私も新聞記者の仕事のためにマニラにいたが、時がちがえばまったく同じ境遇といってもいい。 憲兵隊と違うのは、この人たちが流暢にあやつるのは英語ではなく、もっぱらタガログ語だということである。生まれ育って耳で覚えた現地語をいまでも話し、マンゴーやバナナ、シンカマスなどトロピカルフルーツに目がないおじいさん、おばあさんたちとの旅であった。
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