イヌを放して何が悪い 

 成犬でもらってきたラブラドールレトリーバーのクロちゃん(九郎兵衛)がうちに来て半年がすぎ、4歳になった。これから5歳にかけてちょうど働き盛りの年齢にあたる。そういう年齢のイヌといっしょに生活ができるのは幸せなことだ。

 このクロはたいそう頭がいい。「どこの飼い主も自分の家の子がいちばんって言いますからね」というヒヤカシを受けることもあるが、わたしはそういう判断にかけてはかなり冷酷である。馬鹿犬は馬鹿犬、駄犬は駄犬。自分の家で飼っているイヌが賢さとそのイヌをどれくらい愛しているかは別問題である。(イヌのことを擬人化して「この子」と呼ぶのも生理的にダメ)

 クロは拙宅に来るまで教えられていなかった「フセ」も「ツケ」(側について歩く)もあっというまにできるようになった。他のイヌがいても吠えつくこともない。「マテ」と言えばこちらが豆粒のような大きさになるまで歩き去っても座って待っている(首をろくろ首のようにのばしながらですが)。わたしの在宅時は垣根のない庭で放しっぱなしにしているが、散歩中の近所のイヌが通ってもまるっきり無視。タバコを買いに行くなどちょっとした外出ならつながずにほうりっぱなしで出かけてもおとなしく帰りを待っている。そのくせ、来客が来たらちゃんと一声吠えてくれるのでちゃんと番犬も務める。理想的な個体である。いやはやいいイヌに当たったものだと思う。

 イヌを飼う絶対条件として、ノーリードのまま散歩に行けることがあった。これはイヌと人間双方の幸せのために外せない。放したまま散歩に行けるなら、短時間の散歩でもイヌは思いきり走り回ることができる。ずっとリードを引かなくてもいいからわたしも楽ちんでイヌを放っておいて川魚や野鳥の観察ができる。以前飼っていたシバイヌが雄犬ながらおとなしいやつで、ノーリードで散歩ができた(時折遁走して朝帰りしてたが)ので、その喜びと楽しさは何物にも変えがたいことを知っているのだ。

 ノーリードで「ツケ」状態のまま道路を歩き、川原など広い場所では「ヨシイケ」と言うと存分に走り回るという幸せな散歩。イヌをよく知らない多くの人も「おとなしいんですねえ」と感心し、イヌ好きの人も「ノーリードで散歩できるなんて、ほんとうにいいですね」と言って喜んでくれる。

 ところが、時おり「イヌはつなぎなさい」というおしかりを受けることがある。こうした人はおおむね2種類に分けられる。まずその1は「おとなしい奴ですからだいじょうぶですよ」と言うと納得してくれる人。そしてその2は偉そうに高圧的な文句を言い続ける人である。

 先日その2の人種に出くわした。初老の男性であったと記憶する。「イヌはつながんとあかんやないか」と言うので、いつもどおり「いえ、おとなしいから大丈夫ですよ」と答える。すると「それでも、イヌを怖がる人もおるんや」とさらに高圧的なお答えである。イヌを怖がる人もいるからこそ、こちらは犬種を選び、個体を選び、厳しくしつけをしているのである。最初から対話を拒否したようなこういう人物にとりあう義理はない。だいたい、自分が怖いのならまだしも、だれの代表として物を言っているのかよく分からない。ところが、その上にこの男性が言うたことには「協会に通報するぞ」である。

 いったい何の協会だ、おい?

 ここに至ってコミュニケーションに益なしと認める。「どうぞご自由に」と言い捨て、無視を決め込む。すると「通報するから教えろ、あんた、どこのモンや」などと言うのである。人の素性を聞くならまず自分が名乗ってからにすべきという常識をこの人物は長い人生において獲得していないらしい。人間同士のコミュニケーションを最初から拒否しつつ、自分は安全地帯にいて「協会」という御上の威光をちらつかせるところなど、下衆の外道である。

 これ以上詰め寄ってくるようならこちらにも相応の覚悟はあったが、男性はぶつぶつ言いながら去った。ちなみに2人連れで、もう一方はこの外道の言うことに「そうやそうや」などといちいちあいづちを打っている、下衆の外道のさらに三下であった。

 最近イヌ好きが自慢の愛犬を連れて、休日の川原などに集まり、イヌを遊ばせているのを見かけることがある。ノーリードのイヌも多く、まことにうるわしい光景だと思って見ていたのだが、よく見るとイヌと飼い主1対1でノーリードのまま散歩をしている人は見たことがない。勘ぐってみれば、イヌを放すという理解されにくい行動のため仕方なく同好の志が集まっているという、残念な光景とも思えるのである。

 「イヌはつなげ」派に申し上げる。

 イヌはそんなに馬鹿ではない。人といっしょに暮らすという意味でのイヌのポテンシャルを日本よりずっとうまく引き出してきたヨーロッパでは、都会でもつながずに歩くのが普通の光景である。日本でもできないわけはない。実際にクロちゃんとは神戸の街中でも平気で散歩ができるのである。赤信号では座って待っている。

 欧米のイヌをはじめとする動物をやたらに愛護する傾向にはあまり賛同できないが、イヌの地位は日本より圧倒的に高いようだ。レストランでもしつけられたイヌは入っていいが幼児はお断り、というところもあると聞く。それはクロを見ていると納得できる。聞き分けの悪い子どもよりよほど扱いやすい。イヌというのはそれだけのポテンシャルを秘めているのだ。

 イヌは可能なかぎり放して飼うかわりに、きっちりしつけるべし。そういう世の中になってくれればいいと思う。

 話は飛ぶが、最近呼んだ本で養老孟司が「日本の田舎にクマが出没して人を襲ったりするのは、イヌをつないで飼うようになったから」と断言していた。なるほどそうだ。

 何万年も人間といっしょに生活してきたイヌという動物は、もちろん人間社会の中で実際的な役割をになうようになっていたわけである。双利共生だった。人間はその役割を認識しておらず、ここ数十年の間にイヌの役割は「生活の必需動物」から「ペットという名のヒーラー(癒しを与えるもの)」になってしまった。しかし、数万年来の習慣をここ数十年の間に変えてしまってはどこかにひずみが出る。

 放し飼いのポチが裏の畑で鳴くことができなければ、大判小判のありかもわかりますまい。



[2008/04/09 00:00] よもやまコメント | TB(0) | CM(1)