嫌煙は世の中をよくするか 

 JRを使ったら、加古川駅のホームから喫煙所がひとつ消えている。大阪・神戸方面行きのホームの両端に喫煙所があったのだが、先頭車両付近だけになってしまっている。

 そうしていると、神奈川県が飲食店やパチンコ屋などを全面禁煙にするべく「公共施設禁煙条例」の成立を目指していると、毎日新聞(2008/04/16)の朝刊1面にカコミ記事があった。ありとあらゆるパブリックスペースが対象になるらしい。

 ことほどさようにスモーカーに対する締めつけは露骨に進んでいて、冒頭の神奈川県条例などを知るにつけ、駅ホームの喫煙所がなくなるのも時間の問題ではないかと思わせる。

 スモーカーの私に「まだ吸ってるの?タバコなんかやめろよ」と言い募る元スモーカーの友人もいる。自分もこないだまで喜んで吸っていたくせに。そうなってしまう世の趨勢もわかる気がするけどね。

 いったいこの禁煙運動というのは、なにを目指しているのだろうかと思う。

「まあまあちょっとけむいけど、遠慮して吸ってくれているようだから、そのまま離れて吸っててよね。うん、やめろとは言わないからさ」

というくらいのフレンドリーな態度は取れないものなのだろうか。禁煙・嫌煙運動家というのは、その強行な態度がほんとうに世の中の幸せを増幅するとでも思っていらっしゃるのだろうか。

 天の邪鬼(あまのじゃく)と呼ばれる人がいる。人の言うことの反対をやりたがる人のことだ。つまり、世の中から阻害されればされるほど、意固地になってよけいに喫煙をやめない。そういう人が必ずいる。いますよね、みなさんの周辺にも。また、意固地になるのではなく、煙草をやめる気がもともとない、という人もある。ちかごろ私の身辺にガンの患者が多いのだが、ガンになっても酒を飲み、煙草を吸い続ける人がいる。そういえば赤塚不二夫もそうである。

 こうした人々を急先鋒(?)とするスモーカーはこれからますます弱小勢力になり、それでもやっぱりゼロにはならない、という段階を迎えていくはずである。金魚鉢みたいな透明で狭い喫煙所にスモーカーを押し込んでいる現在の都会の光景に典型的に見られるように、つまり圧倒的少数派を多数派が白眼視する社会になっていく。

 それを、差別というんじゃないのだろうか。

 そういう社会が住みよいと、禁煙活動家や嫌煙家のみなさんは思っているのだろうか。

 本当のことなので言っておきたいのだが、健康・長寿は必ずしも万人の希望ではない。健康・長寿が人類の至上目的であれば、冒険家などという人生のありかたもありえない。

 身辺を見れば「いろんな人がいてあたりまえ」なのは分かり切っているのに(だよね)、こと煙草になるとヒステリーとしか思えない勢いで「いろんな煙草との付き合いのありかた」を否定する。煙草という何百年も人間生活に浸透してきたものを一挙に全否定する。いろんなグラデーションを無視して白か黒か、マルかバツかの単純さを適用して全否定できてしまうのは人間の思考のありかたとしていびつだ。

 そこへいくと、フィリピンという国は居心地のいい国だった。2002年ごろはまだポイ捨てしほうだいの野放図な喫煙マナーの国だったのだが、私が居心地がいいと感じたのはもちろんその野放図さではない。

 私が滞在している間に、首都マニラの中央ビジネス街であるマカティ市で、すべての飲食店が全面禁煙になった。アメリカびいきのビナイ市長の差し金であり、晴天の霹靂である。これが与えたインパクトといえば、30年前の日本でいきなり飲食店が全面禁煙になったのだと想像してもらえればいい。この禁煙施策が実施されたのはマニラ首都圏の中でも「いかにも最先端」なマカティ市だけであった。

 日本食レストランの店主たちも、降って沸いた禁煙条例に対応すべく、禁煙ルームや排煙装置を急ごしらえで準備するなど相当の混乱が生じた。しかし実際の条例が施行されてしばらくすると、さすがに日本の前科持ちが多数逃げ込む国である。異質を排除しない。条例の適用もだんだんとゆるくなってきて「まあ、これくらいの場所なら吸ってもいいだろう」というような現実的な対応に落ち着いた。

 こういう「やわらかい国」だからこそ、日本の退職者が終(つい)の住み処として選ぶんだと思う。いろいろ厳密じゃなくて困るところもあるんだけど、総じて住みやすいのである。



[2008/04/19 23:40] よもやまコメント | TB(0) | CM(0)