在外邦人という人たちというのがどういう存在かお分かりだろうか。分かってもらえているのかいまいち心もとない。
移民X世という言葉があって、海外に移民した当の本人が1世、その子が2世である。明治時代から日本は海外にたくさんの移民を送り出してきたから、彼らの子どもたちはいまや5世とか6世くらいになっている。今の法律では他国籍でも日本で単純労働に就けるのは、この日系人たちだけである。「ブラジル人」などと言われつつ、ちかい先祖に日本人がいるのである。
そうい人たちはの境遇は自分とは遠いと思っておられるであろう。わたしもフィリピンで働いていたころ、自分が「移民X世」になる可能性があるとは思っていなかった。
しかし、わたしはフィリピンで働き出したその時から「日系移民1世候補」だったのである。現地に長く住んで子どもを作ったら、2世のできあがり。この事実に気づきにくいのは、移民1世という言い方は移住した当の本人に対してはあまり使われず、2世・3世が生まれてきてからはじめて遡及的に使われることが多い言からだ。
海外に留学していたあなた。駐在して仕事をしていたあなたもみんな一緒である。移民1世候補だったのだ。帰ってきちゃったから単なる日本人に戻っているけど。
そうすると、ブラジル移民や日系労働者にもにわかに共感が涌いてくるでしょ。
今回一緒にフィリピンに行った人たちは親がフィリピンに住んでいたため、生まれた場所がフィリピンである。約20人のほぼ全員がフィリピン生まれだった。そのままフィリピンに住んでいれば2世になった人たちである。
住んでいたのはマニラだけではない。明治・大正時代の日本人のバイタリティはすさまじく、鎖国から開放されたと思ったらまさに雲霞のごとく国外のあちこちに浸透し生活・事業を始めている。フィリピンの田舎まで行き渡り、鉱山労働や建築工事、「ABCバザー」などと「バザー」いう名前がよく付けられた中小商社などを興している。だからフィリピン生まれといっても全員がマニラ生まれではなく、ルソン島北部のラワッグ市(知らんよね)など田舎生まれの人もいるし、セブ生まれの人もいるのである。
敗戦を機に日本に帰ってきてしまったのでたんなる日本人のおじいさん、おばあさんに戻っているが、ほんとうは日系人と呼ばれる可能性があった人たちなのである。ここにまず1つ目の理解の断層があるだろう。
もう1つの断層は、この人たちは少年・少女期をフィリピンで過ごしているので、心性がちょっと日本人とは違うということだ。
戦前にフィリピンで生まれたみなさんは、親がフィリピンで事業を興して成功者だった人も多く、当時の日本の水準からは考えられないような「ゴージャス」な生活を享受した経験を持っている。戦前にカラー映画を見(日本で「総天然色」が普通に見られるようになったのは戦後)、マニラの日本人学校に馬車で通っていたという人もいる。もちろん「乳母や女中がいた」という人も多い。日本では男の子はみんな丸坊主の時代だが、フィリピンで生活していたため、みんな長髪だった。「丸坊主は囚人の髪形」だからである。
「乳母や女中」はもちろんフィリピン人である。いちばん長い人で17歳までの多感な時期をフィリピンで過ごし、タガログ語(フィリピノ語)を話せるようになっている。教わったフィリピン語ではなく、日常生活で体に浸透していったようなタガログ語である。
「育ち」は争えず、70歳、80歳になる今でも、女性はあきらかに同世代の一般的女性の水準よりはオシャレでセンスがいいし、男性は朗らかでよくしゃべり、歌やダンスが好きだったりして南国的である。
米海軍が比島を奪回するために再攻撃を開始してから日本軍の悲惨な戦いが始まったわけだが、在留邦人のみなさんはまだ子どもだった。降って沸いたようにアメリカに攻めてこられたわけである。在留邦人は餓死寸前で山をさまよったあげく、ふるさとのフィリピンを追われて日本に帰ったのである。
そのせいだろう。在留邦人のみなさんは「慰霊ツアー」とはいえ、旅路を常に笑顔で楽しんでおられる。両親や兄弟を失ったとはいえ、生まれ育った地に帰ってきた、という喜びが隠しようもない。沈痛な慰霊祭でのおももちと、旅路を楽しむありさまのコントラストが強いのですね。雑貨店で嬉々として現地産のバナナを「これはラカタン、これは……」などと品種をあらためて買い求める姿や、マニラ日本人小学校での経験を語るときの盛り上がり、フィリピン料理に舌鼓を打つ表情。楽しくて仕方がないといった風情だ。楽しい同窓会的のフィリピン旅行みたいな雰囲気すらする。
みなさん、フィリピン人や米兵と直接兵隊として闘ってはいないというのも大きいだろう。日本軍の通訳などとして働いた人はあったが、フィリピン人や米兵と直接戦ってはいないのである。だからこそフィリピンでの幼少期の思い出がちゃんと美しいままに保存されているのだと思う。
旧日本兵の生き残りの人たちの慰霊ツアーは、もうすこし「沈痛の度合い」が高いだろうと思う。フィリピンに楽しかった思い出はほとんどなかったろうし、あったにしてもそれを塗り替えてあまりある悲惨な体験をしているだろうからだ。戦友の慰霊に後半生を賭けるような人もいるし、何十回慰霊の旅に来たかもう分からなくなってしまった、という人もいるのである。
ひとくちにフィリピンでの戦争とはいえ、日本人の中でも受け止めかたはいろいろである。
お帰りなさいませ。
フィリピン線跡訪問、とても興味深く読みました。
内容の濃い旅ですね。
戦争を体験していても、一線で戦った兵士か軍属であるか、それだけでも境遇が違うのでしょうね。
ルソン島の南に位置するスラウェシ島にも、明治・大正にかけて沖縄から移り住んだ漁民の集落があったようです。
スラウェシに住んでいる一般の邦人(沖縄出身)が、その人たちの墓(朽ち果てかけていた)を整備していました。
国境がまだマージナルだった時代って、面白いです。
それにしても、私も移民一世候補だったのですね・・・。
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