JRを使ったら、加古川駅のホームから喫煙所がひとつ消えている。大阪・神戸方面行きのホームの両端に喫煙所があったのだが、先頭車両付近だけになってしまっている。 そうしていると、神奈川県が飲食店やパチンコ屋などを全面禁煙にするべく「公共施設禁煙条例」の成立を目指していると、毎日新聞(2008/04/16)の朝刊1面にカコミ記事があった。ありとあらゆるパブリックスペースが対象になるらしい。 ことほどさようにスモーカーに対する締めつけは露骨に進んでいて、冒頭の神奈川県条例などを知るにつけ、駅ホームの喫煙所がなくなるのも時間の問題ではないかと思わせる。 スモーカーの私に「まだ吸ってるの?タバコなんかやめろよ」と言い募る元スモーカーの友人もいる。自分もこないだまで喜んで吸っていたくせに。そうなってしまう世の趨勢もわかる気がするけどね。 いったいこの禁煙運動というのは、なにを目指しているのだろうかと思う。 「まあまあちょっとけむいけど、遠慮して吸ってくれているようだから、そのまま離れて吸っててよね。うん、やめろとは言わないからさ」 というくらいのフレンドリーな態度は取れないものなのだろうか。禁煙・嫌煙運動家というのは、その強行な態度がほんとうに世の中の幸せを増幅するとでも思っていらっしゃるのだろうか。 天の邪鬼(あまのじゃく)と呼ばれる人がいる。人の言うことの反対をやりたがる人のことだ。つまり、世の中から阻害されればされるほど、意固地になってよけいに喫煙をやめない。そういう人が必ずいる。いますよね、みなさんの周辺にも。また、意固地になるのではなく、煙草をやめる気がもともとない、という人もある。ちかごろ私の身辺にガンの患者が多いのだが、ガンになっても酒を飲み、煙草を吸い続ける人がいる。そういえば赤塚不二夫もそうである。 こうした人々を急先鋒(?)とするスモーカーはこれからますます弱小勢力になり、それでもやっぱりゼロにはならない、という段階を迎えていくはずである。金魚鉢みたいな透明で狭い喫煙所にスモーカーを押し込んでいる現在の都会の光景に典型的に見られるように、つまり圧倒的少数派を多数派が白眼視する社会になっていく。 それを、差別というんじゃないのだろうか。 そういう社会が住みよいと、禁煙活動家や嫌煙家のみなさんは思っているのだろうか。 本当のことなので言っておきたいのだが、健康・長寿は必ずしも万人の希望ではない。健康・長寿が人類の至上目的であれば、冒険家などという人生のありかたもありえない。 身辺を見れば「いろんな人がいてあたりまえ」なのは分かり切っているのに(だよね)、こと煙草になるとヒステリーとしか思えない勢いで「いろんな煙草との付き合いのありかた」を否定する。煙草という何百年も人間生活に浸透してきたものを一挙に全否定する。いろんなグラデーションを無視して白か黒か、マルかバツかの単純さを適用して全否定できてしまうのは人間の思考のありかたとしていびつだ。 そこへいくと、フィリピンという国は居心地のいい国だった。2002年ごろはまだポイ捨てしほうだいの野放図な喫煙マナーの国だったのだが、私が居心地がいいと感じたのはもちろんその野放図さではない。 私が滞在している間に、首都マニラの中央ビジネス街であるマカティ市で、すべての飲食店が全面禁煙になった。アメリカびいきのビナイ市長の差し金であり、晴天の霹靂である。これが与えたインパクトといえば、30年前の日本でいきなり飲食店が全面禁煙になったのだと想像してもらえればいい。この禁煙施策が実施されたのはマニラ首都圏の中でも「いかにも最先端」なマカティ市だけであった。 日本食レストランの店主たちも、降って沸いた禁煙条例に対応すべく、禁煙ルームや排煙装置を急ごしらえで準備するなど相当の混乱が生じた。しかし実際の条例が施行されてしばらくすると、さすがに日本の前科持ちが多数逃げ込む国である。異質を排除しない。条例の適用もだんだんとゆるくなってきて「まあ、これくらいの場所なら吸ってもいいだろう」というような現実的な対応に落ち着いた。 こういう「やわらかい国」だからこそ、日本の退職者が終(つい)の住み処として選ぶんだと思う。いろいろ厳密じゃなくて困るところもあるんだけど、総じて住みやすいのである。
成犬でもらってきたラブラドールレトリーバーのクロちゃん(九郎兵衛)がうちに来て半年がすぎ、4歳になった。これから5歳にかけてちょうど働き盛りの年齢にあたる。そういう年齢のイヌといっしょに生活ができるのは幸せなことだ。 このクロはたいそう頭がいい。「どこの飼い主も自分の家の子がいちばんって言いますからね」というヒヤカシを受けることもあるが、わたしはそういう判断にかけてはかなり冷酷である。馬鹿犬は馬鹿犬、駄犬は駄犬。自分の家で飼っているイヌが賢さとそのイヌをどれくらい愛しているかは別問題である。(イヌのことを擬人化して「この子」と呼ぶのも生理的にダメ) クロは拙宅に来るまで教えられていなかった「フセ」も「ツケ」(側について歩く)もあっというまにできるようになった。他のイヌがいても吠えつくこともない。「マテ」と言えばこちらが豆粒のような大きさになるまで歩き去っても座って待っている(首をろくろ首のようにのばしながらですが)。わたしの在宅時は垣根のない庭で放しっぱなしにしているが、散歩中の近所のイヌが通ってもまるっきり無視。タバコを買いに行くなどちょっとした外出ならつながずにほうりっぱなしで出かけてもおとなしく帰りを待っている。そのくせ、来客が来たらちゃんと一声吠えてくれるのでちゃんと番犬も務める。理想的な個体である。いやはやいいイヌに当たったものだと思う。 イヌを飼う絶対条件として、ノーリードのまま散歩に行けることがあった。これはイヌと人間双方の幸せのために外せない。放したまま散歩に行けるなら、短時間の散歩でもイヌは思いきり走り回ることができる。ずっとリードを引かなくてもいいからわたしも楽ちんでイヌを放っておいて川魚や野鳥の観察ができる。以前飼っていたシバイヌが雄犬ながらおとなしいやつで、ノーリードで散歩ができた(時折遁走して朝帰りしてたが)ので、その喜びと楽しさは何物にも変えがたいことを知っているのだ。 ノーリードで「ツケ」状態のまま道路を歩き、川原など広い場所では「ヨシイケ」と言うと存分に走り回るという幸せな散歩。イヌをよく知らない多くの人も「おとなしいんですねえ」と感心し、イヌ好きの人も「ノーリードで散歩できるなんて、ほんとうにいいですね」と言って喜んでくれる。 ところが、時おり「イヌはつなぎなさい」というおしかりを受けることがある。こうした人はおおむね2種類に分けられる。まずその1は「おとなしい奴ですからだいじょうぶですよ」と言うと納得してくれる人。そしてその2は偉そうに高圧的な文句を言い続ける人である。 先日その2の人種に出くわした。初老の男性であったと記憶する。「イヌはつながんとあかんやないか」と言うので、いつもどおり「いえ、おとなしいから大丈夫ですよ」と答える。すると「それでも、イヌを怖がる人もおるんや」とさらに高圧的なお答えである。イヌを怖がる人もいるからこそ、こちらは犬種を選び、個体を選び、厳しくしつけをしているのである。最初から対話を拒否したようなこういう人物にとりあう義理はない。だいたい、自分が怖いのならまだしも、だれの代表として物を言っているのかよく分からない。ところが、その上にこの男性が言うたことには「協会に通報するぞ」である。 いったい何の協会だ、おい? ここに至ってコミュニケーションに益なしと認める。「どうぞご自由に」と言い捨て、無視を決め込む。すると「通報するから教えろ、あんた、どこのモンや」などと言うのである。人の素性を聞くならまず自分が名乗ってからにすべきという常識をこの人物は長い人生において獲得していないらしい。人間同士のコミュニケーションを最初から拒否しつつ、自分は安全地帯にいて「協会」という御上の威光をちらつかせるところなど、下衆の外道である。 これ以上詰め寄ってくるようならこちらにも相応の覚悟はあったが、男性はぶつぶつ言いながら去った。ちなみに2人連れで、もう一方はこの外道の言うことに「そうやそうや」などといちいちあいづちを打っている、下衆の外道のさらに三下であった。 最近イヌ好きが自慢の愛犬を連れて、休日の川原などに集まり、イヌを遊ばせているのを見かけることがある。ノーリードのイヌも多く、まことにうるわしい光景だと思って見ていたのだが、よく見るとイヌと飼い主1対1でノーリードのまま散歩をしている人は見たことがない。勘ぐってみれば、イヌを放すという理解されにくい行動のため仕方なく同好の志が集まっているという、残念な光景とも思えるのである。 「イヌはつなげ」派に申し上げる。 イヌはそんなに馬鹿ではない。人といっしょに暮らすという意味でのイヌのポテンシャルを日本よりずっとうまく引き出してきたヨーロッパでは、都会でもつながずに歩くのが普通の光景である。日本でもできないわけはない。実際にクロちゃんとは神戸の街中でも平気で散歩ができるのである。赤信号では座って待っている。 欧米のイヌをはじめとする動物をやたらに愛護する傾向にはあまり賛同できないが、イヌの地位は日本より圧倒的に高いようだ。レストランでもしつけられたイヌは入っていいが幼児はお断り、というところもあると聞く。それはクロを見ていると納得できる。聞き分けの悪い子どもよりよほど扱いやすい。イヌというのはそれだけのポテンシャルを秘めているのだ。 イヌは可能なかぎり放して飼うかわりに、きっちりしつけるべし。そういう世の中になってくれればいいと思う。 話は飛ぶが、最近呼んだ本で養老孟司が「日本の田舎にクマが出没して人を襲ったりするのは、イヌをつないで飼うようになったから」と断言していた。なるほどそうだ。 何万年も人間といっしょに生活してきたイヌという動物は、もちろん人間社会の中で実際的な役割をになうようになっていたわけである。双利共生だった。人間はその役割を認識しておらず、ここ数十年の間にイヌの役割は「生活の必需動物」から「ペットという名のヒーラー(癒しを与えるもの)」になってしまった。しかし、数万年来の習慣をここ数十年の間に変えてしまってはどこかにひずみが出る。 放し飼いのポチが裏の畑で鳴くことができなければ、大判小判のありかもわかりますまい。
養老孟司と内田樹&東京ファイティングキッズの対談がトーク番組のダウンロードサイト 「ラジオデイズ」(http://www.radiodays.jp/)にあったので、ダウンロードして聞く。たいへんおもしろかった。養老先生ほんと声がいいですね。 あっちこっちに飛んで行きながら通奏低音がちゃんとある自由自在・融通無碍話を聞いているのがまことにいい。養老孟司と対談している内田先生から合気道を習っているのだと思うと、まことにへんな感じ。 こんな先生がたまさか兵庫県にいらっしゃったという幸運に感謝するばかり。これも内田先生おっしゃるところの「武運」かもしれない。内田先生は東京の自由が丘をほっつきあるいていたところたまたま合気道の道場に出くわし、そこが現在全幅の尊敬を寄せる多田宏師範の道場だったというのを、自身の「武運」として語っておられる。いったいどの著書のどの部分だったかは、たくさん読みすぎて忘れてしまったけれど。 後日、ナガオカから薦められて養老孟司+宮崎駿の対談本『虫眼とアニ眼』(新潮社)を読了。こちらもたいそうおもしろい。 宮崎駿、養老孟司、内田樹、この現代の三賢のいずれかがお好きな方は、求められたし。 論理で物事を説明しようとしてきた時代が終わるんじゃないか……、という感覚を受ける。
合気道6回目。3週間ぶりである。3月の末に2泊3日の合宿があったのだが、フィリピン・香港・韓国死のアジアロードに出ていたため参加できず、その次の週はお休みであった。 1週間に1度というのは、悲しいペースだ。 新しいことを学ぶには最初に勢いをつける必要がある。語学でも1週間に1回英会話学校に行って年間30万円を使うより、1カ月間30万円で有能な英語の家庭教師を雇い、毎日数時間ずつ特訓を受けながら自分でも集中して1カ月英語学習に没頭したほうが圧倒的に効率は上がる。1カ月に30万円も使うことに躊躇はあるだろうが、その最初の1カ月が終わればすでに自分で後は勉強できるくらいに能力は付いているはずだし、さらにのちの11カ月がまるまる自分のものになる。 そういう勉強の仕方が理想だと思うのだが、合気道はそうはいかない。稽古が1週間に1度しかないからだ。 本を買って調べて手を動かしたりしてみるが、なにせ武道は流派の違いというのがあるから、実際の多田塾の稽古と購入した本に書いてあることがぜんぜん違ったりする。用語まで微妙に違うのであるから、初学者としては混乱するほかない。道場まで遠いこともあり、同好の志ともなかなか会わない。 というわけで毎回稽古に赴く車中はちょっと気重である。前回覚えたことをまったく頭の中で反芻できないのである。イメージができないので自信がまったくない。10年以上前の大学のころにやった柔道の打ち込み(技を掛ける寸前までの動作を反復する練習法)のほうがよっぽど思い出せるくらいだ。 しかしここは我慢のしどころである。私が学んだ柔道は力技であって、日常生活の体の使い方の延長線上にあった。だから思い出せるのである。合気道は日常生活の体の使い方とはまったく違った体の運用が必要になる。齢三十三にしてようやく立ち上がったというようなありさまであるから、そうそう新しい体の使い方が身に付くわけもない。 とはいえ、毎回気重なまま稽古に出かけつつ、稽古が終わった後はとても晴れ晴れとした気分になるのが不思議でもある。頭、つまり理屈では何一つ整理がついているわけではないのだが、体が何かを整理していってるのであろう。たった6回ではあるが稽古に参加するうち、「体が勝手に動く」というような体験がけっこうあった。 技を掛けて、掛けられて「あ、なんか今のよかったな」というのである。 内田先生が土曜日の指導の中で大要こんなことをおっしゃった。「稽古中は自分に合う人を選んですばやくそばに座り、すかさずその人にお願いしますって言うんだよ。そういうのがすごく大事です」。 投げやすい人、投げにくい人というのがあり、また投げられやすい人、投げられにくい人というのがある。 投げられにくいのが、下手に手加減をしてくれる人である。これは初級から中級の女性に多い。当方は「ド」が付く初心者であるから、下手な方向に受け身を取ったりして関節を傷めないようにスピードもゆっくりと手加減をしてくれている、のは分かるのである。しかし関節はしっかり極まっていないし勢いもないためこちらはつねにどうとでも逃げられる状態に置かれているわけで、技を受けようにも受けにくいのである。どういう技をかけられているかこちらも分かりにくい。 逆に上級者は関節もばっちり極めてスピーディに「あちゃあ、こりゃだめだ」という状態にすぐ持って行ってくれるから、受け手としては一定の方向にしか逃げようがない。受けるのも簡単なのである。投げられて爽快である。 15時稽古終了。芦屋の道場のまわりは桜が満開であるが、花には目もくれずに車を飛ばして、しかし翌日から交通安全週間であるから時速110キロの安全圏速度を維持しつつ加古川へ戻り、チェンソーを軽トラに放り込んで薪を切りに郊外に出る。知人に探してもらっていたところ、加古川市と三木市の境界付近に雑木を切り倒している場所が見つかった。 すでにユンボ(パワーショベル)で打ち倒されている木が何本もあり、いくら持って帰ってもいいということである。直径が40センチくらいでチェンソー初心者が切るのにはちょっと荷が重いと思えるくらい大きなものもある。 チェンソーというのはほんとうに危ない道具で、切断中にチェンソーが跳ね返ってきて何十針も縫う傷を負ったという話をよく聞く。これまで使った経験はないわけではないけれど、慎重にやりはじめる。ちょっと大きめの35cc、ガイドバー(刃渡り)35センチのわりと大きなチェンソーである。 最初は細い枝を払い、だんだんと太い幹へと移る。ほれぼれするような薪になりそう。軽トラまで運ぶが、うんざりするほど重い。すでに切り倒されてけっこう乾燥している木でこれだから、完全な生の立木はほんとうに苦労しそうだ。 日暮れまで作業して軽トラに「半盛り」くらいの薪を持ち帰る。どうやらこれでひと月分くらいはありそうだ。状況が恵まれていれば3時間くらいの作業でひと月分くらいの原木は調達できることになる。あとは薪割りすればいい。薪割りは楽しみである。ヨキ(斧)を打ち下ろすとパカンと割れるあの作業は気分を高揚させるものがある。 それにしても根回り直径40センチ、50センチの木が多い。集落はずれの雑木林でもそんな大木がけっこう見られるのだ。木はあんまり大きくなると作業が大変だから薪として使いにくくなる。 養老孟司が「日本は石油をこれまで使ってきたから森林が守られたともいえる」というようなことを書いていた。日本が森林率を誇っていられるのも、燃料を完全に木質燃料から化石燃料にシフトしたからだ。日本の木材の蓄積量は現在すさまじい量になっている。薪をいまだにおおいに使っている韓国で見る山中のか細い林とは大違いだ。40年、50年のちょうど切りごろの木材が日本の山にはスギであれヒノキであれうなるほどある。これがさらに大きくなってくるとかえって住宅の建築材料として使いにくくなるだろう。薬師寺を建てるわけではないのだから、それ相応のサイズというものがある。 南紀で備長炭の炭焼きをしている土山君の炭焼き仕事を手伝った時には、案外細い木を使っているのに気づかされた。備長炭に使うバベ(ウバメガシ)は成長が遅く非常に重い木であるのも理由の1つだが、あまりの巨木は作業効率が悪いし切り倒しても人力ではとても運び出せないので切らないのである。 軽トラを走らせながら、ちょっとこれはとても切れんな……という巨木もあちこちで見ていると、日本の林はこれから伐採の限界に入ってくるだろうと思う。早いうちに切って使って再生を促さないと、あと10年20年と放っておかれると世代交替のチャンスを逃してしまうことになる。でかすぎて切れない、というと巨大銀行みたいですが。 と危機感を演出してみましたが、わたしはいい時期に薪ストーブを導入したものだと思う。ちょっと手を広げれば薪はいくらでも手に入りそうだということですから。
在外邦人という人たちというのがどういう存在かお分かりだろうか。分かってもらえているのかいまいち心もとない。 移民X世という言葉があって、海外に移民した当の本人が1世、その子が2世である。明治時代から日本は海外にたくさんの移民を送り出してきたから、彼らの子どもたちはいまや5世とか6世くらいになっている。今の法律では他国籍でも日本で単純労働に就けるのは、この日系人たちだけである。「ブラジル人」などと言われつつ、ちかい先祖に日本人がいるのである。 そうい人たちはの境遇は自分とは遠いと思っておられるであろう。わたしもフィリピンで働いていたころ、自分が「移民X世」になる可能性があるとは思っていなかった。 しかし、わたしはフィリピンで働き出したその時から「日系移民1世候補」だったのである。現地に長く住んで子どもを作ったら、2世のできあがり。この事実に気づきにくいのは、移民1世という言い方は移住した当の本人に対してはあまり使われず、2世・3世が生まれてきてからはじめて遡及的に使われることが多い言からだ。 海外に留学していたあなた。駐在して仕事をしていたあなたもみんな一緒である。移民1世候補だったのだ。帰ってきちゃったから単なる日本人に戻っているけど。 そうすると、ブラジル移民や日系労働者にもにわかに共感が涌いてくるでしょ。 今回一緒にフィリピンに行った人たちは親がフィリピンに住んでいたため、生まれた場所がフィリピンである。約20人のほぼ全員がフィリピン生まれだった。そのままフィリピンに住んでいれば2世になった人たちである。 住んでいたのはマニラだけではない。明治・大正時代の日本人のバイタリティはすさまじく、鎖国から開放されたと思ったらまさに雲霞のごとく国外のあちこちに浸透し生活・事業を始めている。フィリピンの田舎まで行き渡り、鉱山労働や建築工事、「ABCバザー」などと「バザー」いう名前がよく付けられた中小商社などを興している。だからフィリピン生まれといっても全員がマニラ生まれではなく、ルソン島北部のラワッグ市(知らんよね)など田舎生まれの人もいるし、セブ生まれの人もいるのである。 敗戦を機に日本に帰ってきてしまったのでたんなる日本人のおじいさん、おばあさんに戻っているが、ほんとうは日系人と呼ばれる可能性があった人たちなのである。ここにまず1つ目の理解の断層があるだろう。 もう1つの断層は、この人たちは少年・少女期をフィリピンで過ごしているので、心性がちょっと日本人とは違うということだ。 戦前にフィリピンで生まれたみなさんは、親がフィリピンで事業を興して成功者だった人も多く、当時の日本の水準からは考えられないような「ゴージャス」な生活を享受した経験を持っている。戦前にカラー映画を見(日本で「総天然色」が普通に見られるようになったのは戦後)、マニラの日本人学校に馬車で通っていたという人もいる。もちろん「乳母や女中がいた」という人も多い。日本では男の子はみんな丸坊主の時代だが、フィリピンで生活していたため、みんな長髪だった。「丸坊主は囚人の髪形」だからである。 「乳母や女中」はもちろんフィリピン人である。いちばん長い人で17歳までの多感な時期をフィリピンで過ごし、タガログ語(フィリピノ語)を話せるようになっている。教わったフィリピン語ではなく、日常生活で体に浸透していったようなタガログ語である。 「育ち」は争えず、70歳、80歳になる今でも、女性はあきらかに同世代の一般的女性の水準よりはオシャレでセンスがいいし、男性は朗らかでよくしゃべり、歌やダンスが好きだったりして南国的である。 米海軍が比島を奪回するために再攻撃を開始してから日本軍の悲惨な戦いが始まったわけだが、在留邦人のみなさんはまだ子どもだった。降って沸いたようにアメリカに攻めてこられたわけである。在留邦人は餓死寸前で山をさまよったあげく、ふるさとのフィリピンを追われて日本に帰ったのである。 そのせいだろう。在留邦人のみなさんは「慰霊ツアー」とはいえ、旅路を常に笑顔で楽しんでおられる。両親や兄弟を失ったとはいえ、生まれ育った地に帰ってきた、という喜びが隠しようもない。沈痛な慰霊祭でのおももちと、旅路を楽しむありさまのコントラストが強いのですね。雑貨店で嬉々として現地産のバナナを「これはラカタン、これは……」などと品種をあらためて買い求める姿や、マニラ日本人小学校での経験を語るときの盛り上がり、フィリピン料理に舌鼓を打つ表情。楽しくて仕方がないといった風情だ。楽しい同窓会的のフィリピン旅行みたいな雰囲気すらする。 みなさん、フィリピン人や米兵と直接兵隊として闘ってはいないというのも大きいだろう。日本軍の通訳などとして働いた人はあったが、フィリピン人や米兵と直接戦ってはいないのである。だからこそフィリピンでの幼少期の思い出がちゃんと美しいままに保存されているのだと思う。 旧日本兵の生き残りの人たちの慰霊ツアーは、もうすこし「沈痛の度合い」が高いだろうと思う。フィリピンに楽しかった思い出はほとんどなかったろうし、あったにしてもそれを塗り替えてあまりある悲惨な体験をしているだろうからだ。戦友の慰霊に後半生を賭けるような人もいるし、何十回慰霊の旅に来たかもう分からなくなってしまった、という人もいるのである。 ひとくちにフィリピンでの戦争とはいえ、日本人の中でも受け止めかたはいろいろである。
フィリピンから帰ってきたとたんに、訪問してきたルソン島中部にあるヌエバエシハ州カバナツアンで日本人が殺された。いや、帰ってきたのは6日だったから、じつは滞在中に日本人が射殺されていたことになる。 日本でも報道されるフィリピンのニュースはこういう「暗部」ばかりになってきている。どうやらスモーキーマウンテンが有名になってからというもの、日本の活字・写真メディアを問わず紹介されるフィリピンのイメージがマイナスイメージに固定化されてきたようだ。 人がゴミの海にいるような写真を見て「あ、フィリピンだな」と思うときっとフィリピンである。そういうイメージしか読者が抱かなくなっているし、フィリピンのニュースで一般読者のイメージに合わないものを書いても撮影しても、編集段階ではねられてもいるのだろう。 かくて、日本に報道されるのはこういったマイナスイメージの写真+邦人殺害事件のみ、ということになる。 じつはマニラにコールセンターが増設されてさらに中間所得層が増えていたり、それに同調しておしゃれなスポーツとしてバドミントンが流行したりといろんな動きがあるのだが、それは日本人の興味の対象外になってしまっている。 めちゃくちゃな汚職が露見してもクーデターが起きても、けっきょくは一歩も進まない停滞感のせいで、国際的に見放されつつあるのも事実だけど。 今回のフィリピン訪問で私が同行したのは70歳から80歳の方である。つまり、日本の版図が西大平洋全域にまたがっていた時代を生きた人である。ガダルカナル島とか、ミッドウェー諸島とか、の時代ですね。こういった地名に関連情報を持たない私と、ラジオや新聞や日常会話で聞いていた世代とが一緒に旅することになったわけだ。 マニラを出発した29日には、戦前に「在外指定マニラ日本人小学校」だった校舎を訪問する。戦災を免れ、さいきんまでその面影をとどめていた。数年前まで学校の校舎としてつかわれていたが、今回訪れてみるとほぼ廃屋と化している。マニラでは上陸してきた米軍と日本軍の壮絶な市街戦があったのだが、この日本人学校が残ったのはちかくのサントトマス大学に米軍の捕虜が収容されていたため、米軍の艦砲射撃の標的にされなかったからだそうだ。 教室に入ると 「わしは背が低かったからいつもこの辺にすわってたよ」 と話す男性。 「雨の日にはここでお手玉したりね……」 と廊下を指さすおばあさんもいる。 2階に上がって、これがおそらく最後になるだろう学校での校歌斉唱。Webに掲載されていることもなかろうと思うので、記録のため以下に掲載しておきます。歌自体も録音したが、ブログにはアップできないので、これはまた他の場所で。 ──────────────────── マニラ日本人小学校校歌(河野辰二作詞、宮嶋慎三郎作曲) 一 黒潮南にさわげども 日の本つ国ゆるぎなく 君の稜威(みいつ)を仰ぐとき 国民永遠(くにたみとわ)に力あり 二 灼熱荒野を焦せども 図南(となん)の翼たわみなく 真紅の御旗(みはた)かかぐとき 我等の意気のいや高し 三 故国千里をへだつれど 大和桜(やまとざくら)の香はきよく 国史の榮(はえ)をうたうとき 学窓(がくそう)つねに風薫る ──────────────────── マニラを離れ、バスで北を目指す。途中、パンパンガ州マバラカットの特攻隊慰霊碑で慰霊祭を開く。初の神風特攻隊が飛び立ったのがこのマバラカット基地だった。特攻隊敷島隊の隊長・関行男大尉はここから飛んで米軍空母に突撃し、軍神となった。 実はこの特攻隊慰霊碑は、フィリピン人の「愛国的ふがいなさ」をただそうと、フィリピン人歴史家の尽力によって立てられたというめずらしい経歴がある。もっとも、慰霊祭に参拝するのは日本人ばかりである。 戦闘帽をなびかせた格好のいい特攻兵像は、特攻隊を扱った映画「ウィンズ・オブ・ゴッド」に主演した俳優の今井雅之(監督も)に似せて作られている。 戦争について考えるのだが、兵士として戦った人たちは、自分たちが信じて裏切られた戦争で戦友を失った。それだけ経験も記憶もドラマチックである。しかしたんに親の仕事を理由にフィリピンに住んでいた人たちにとっては、戦争とはなんだったのだろうか。わけが分からないままに戦争に巻き込まれ、たくさんの子どもたちが死んでいったわけである。 前線で爆弾にはじきとばされて死んでいった兵士と、山中で逃げまどって栄養失調と病気で倒れていった子どもたち。やはり元兵士のほうがフィリピンへの思いは強烈らしい。フィリピンに何度も何度も慰霊にやってくるのは、戦友をうしなった元兵士が多いらしい。 「元兵士の人は慰霊にかける思いが違う」 と今回のツアーを組んだ慰霊専門旅行代理店、PICの倉津幸代さんも言う。中には「自分が生き残ったのは慰霊をするため」と断言する人もいるそうだ。 だが、1人の人間を襲った運命の残酷さとしてはどちらが上なのだろうか。まったく人生をまったく選べないうちに死んでいった子どもたちのほうが残酷な運命を強いられたとはいえまいか。 一路、山中の避暑都市バギオへ。在留日本人たちが逃げ場を求めた山中に入っていく。
毎年4月の第1日曜日にはフィリピン関連の遺族や元兵士たちが集まる比島観音例大祭が愛知県幡豆町の三ケ根山で例年開かれる。フィリピンの方を向いて立つ観音像の足下での戦没者たちの慰霊祭。参加者はさすがに減ってきたが、比島戦で亡くなった人の数は「51万余」人と言われるだけあって、まだ数百人の参加者がある。  2007年には、この比島観音例大祭のあと、「憲友慰霊のつどい」というフィリピンの元憲兵たちのサークルの「最後の会合」が開かれ、同席させていただいた。 三ケ根山にほど近い西浦温泉に宿泊して酒を酌み交わし、陸軍中野学校やフィリピン現地での訓練兵時代の思い出話に花を咲かせる。はた目にはご老人たちが温泉に入って酒を飲んでいるだけのツアーだ。しかしおもしろいのは、たまさか宿の女中がフィリピン人だと判明したときのことで。さすが元憲兵の秀才ばかり、90歳を越えるおじいさんたちがいきなり流暢な英語で話しだすのである。 よく短期の語学留学をしてきた学生によくある、やたら発音だけうまく単語力にとぼしい英語ではない。ポライトで、地に足のついた単語力を備えた英語であった。 90歳を越える人たちの会話であるから、体調思わしくなく集いに参加できなかったメンバーのことを 「88歳で老齢のため参加できずってのはおこがましいやな」 「ほんとだよ」 などという信じがたい会話も聞かれる。 参加者の中に岡村甫一さんという方がおられた。クマのような大きな体を杖で支えた、濃い眉が目立つやさしい風貌のおじいさんである。この憲友のつどいのために遠く熊本県から大阪での1泊を経由してやって来た。昭和15年に21歳で中野学校に入学したというから、御歳88あたりであったろう。  この岡村さんが参加していた戦争関連の団体には、比島憲友会(2000年ごろ解散)、近衛1連隊中隊会(2005年解散)、憲兵学校7期生会(2005年解散)があった。そして最後になったこの「憲友慰霊のつどい」も2007年で終わろうとしている。「やっぱり一緒に勉強した中野学校の同期生がいちばん仲がよかった。しかし何もかも終わってしまった」と優しい目で語る。 その岡村さんも、この集いが最後となった昨年暮れ、亡くなった。 そういうツアーがあること自体われわれの世代にはあまり知られてはいないが、「戦跡慰霊」という旅行の形態がある。第2次世界大戦で各地の戦場に散った戦友を弔うため、生き残った戦友がえんえんと続けている。つまり、フィリピンならフィリピンの、かつて自分たちが米兵や現地のゲリラ兵と死闘をくりひろげた戦場そのもの(たいていとんでもない田舎である)を訪れ、戦友が散ったその場所に花を供え、卒塔婆を立てて慰霊祭をするのである。かつてはこの戦跡慰霊ツアー(ツアーといっても、旅の形態からしてパックツアーではない)だけでそうとうな旅行者数になっていた。 しかし兵士として現場で闘った人たちというのは戦時中にたいてい20歳以上であり、2008年にはすでに83歳以上ということになる。とてもじゃないが東南アジアの戦地を再訪問する旅行に耐えられない年齢になってきている。 2月28日から3月6日までの8日間で70─80歳の「ちょっと若め」のご老体ばかり20人とルソン島北部の戦場を巡る旅をしてきた。サークルの名前を「マニラ会」という。この会の特徴は戦争中に兵隊ではなく、現地に住んでいる一般日本人だったということだ。ほとんどがフィリピン生まれ。両親がフィリピンに渡って事業を始めた家に生まれた人が多い。造船屋、ガラス屋、海水浴場経営者、鉱山労働者、商社の現地駐在員──。私も新聞記者の仕事のためにマニラにいたが、時がちがえばまったく同じ境遇といってもいい。 憲兵隊と違うのは、この人たちが流暢にあやつるのは英語ではなく、もっぱらタガログ語だということである。生まれ育って耳で覚えた現地語をいまでも話し、マンゴーやバナナ、シンカマスなどトロピカルフルーツに目がないおじいさん、おばあさんたちとの旅であった。
28日から3月6日までフィリピンに行く。 マニラ新聞時代に取材してから親戚付き合いみたいになったおばあさんのフィリピン最後の訪問に付いていく。おばあさんは齢80を過ぎている。戦争中はフィリピンにいて、米軍の攻撃を逃れて他の在留邦人、兵士ともどもルソン山中へ逃げ、死屍累々阿鼻叫喚の地獄のような逃避行のすえに生還した。 そういうお年寄りばかり20人が、今生最後の戦地訪問に行くのである。付いていかないわけにはいかないの。 そんなわけでブログの更新がしばらくできません。みなさんしばらくごきげんよう。
9月中ごろにラブラドールレトリバーのクロちゃんが転がり込んできてからわが家に来てからもう5カ月が過ぎた。 イヌは欲しかったし、クロちゃんはこちらの思惑をはるかに超える利口なイヌだったのでとても満足しているのだが、問題がひとつあった。 短距離はバイクの荷台に乗せたりいっしょに歩いたり、長距離は列車でと、どこへでも連れて行くつもりだったのだけれど、中型犬はケージに入れても列車には乗せられないのを知らなかったのだった。クロは体重だけですでに26キロあって、JRの規則の「ケースと動物を合わせた重さが10キロ以内」にはとてもじゃないが当てはまらない。外見が目立たなければ重さなんか「軽いフリ」して持ち運べばバレないかもしれない……と一瞬思ったけど、いくらなんでも中型犬入りのケージは目立ちすぎて改札で止められるだろう。 半年足らずのあいだ家族や友人のクルマを借りたりしてあちこち行ってみたが、いちいちドロ足で入り込むわけだし。そんなわけでとうとうクルマの購入を検討しはじめた。 痛恨事である。 ひんぱんに川や海や山に遊びに行くにもかかわらず、安易に車を買うのがいやでクルマを持っていなかった。クルマはイコール諸悪の根源だと思ってきたからだった クルマなんかが増えるから、広い道路が必要になるのであって、膨大な税金が投じられてきた。田舎の人は運動不足になったし、街の景色が画一化した。クルマなんかが増えるから、これまでにおそらく100万人以上が自動車事故で亡くなった。私のかつての彼女も原付きバイクの停車中に後部から突っ込んできたRV車にはね飛ばされ、頭をつぶされて3カ月の昏睡のあげく障害者になった。クルマなんかが増えるから、排ガスで洗濯ものが真っ黒になる。ゼンソクが増える。中国とインドの人々がみんな車をほしがったらもうたいへん。クルマなんかが増えるから人間が横柄になって、こないだも道路を横断していた私がちょっと邪魔になっただけで、オバハンドライバーがクルマの窓からわざわざ顔をだして「アホー」と言うたのである。私がバイクや自転車でツーリングしていれば幅寄せし、後ろからアオるのはこういう輩であろう。 とここまで言っておいて無茶苦茶だが、好きなクルマもある。特にオールドカーが好きなのだ。シトロエンの2CVやチンクエチェント、プジョー、ルノー、日本車でも昔のクルマはセクシーなのが多い。特に曲線が美しいクルマ。 昔のクルマというのは、美しくて小さく、控えめなのですよ。女性的なんですね。ああ分かった、だから好きなんだ。ああそうか、だから曲線なんだ。 考えてみると、人間のエゴを象徴的に体現したようなクルマが嫌いなのだと思う。大きくて、臭くて、うるさくて、横柄で、人を轢き殺す。 私自身もカブに乗っていてクルマにはねられたことがある。5月だった。なぜ5月だったと覚えているかといえば、はねられて田植直後の水田にたたき落とされたからだ。小さな交差点の出合い頭にはねられ、間一髪カーブミラーを避けて道路1メートル下の田んぼの中に落下した。水田というのは最高のクッションで、バイクとクルマのバンパーに挟まれた右足首以外はバイクともども無傷だった。 全治2週間と診断され、松葉杖をしばらく使うハメになった。足首の神経が露出している部分だったので、嫌な痛みが半年以上続いた。クルマを運転していたのは大阪府箕面市の高級住宅地に住むおばさんである。見舞いにはいっさい来なかった。事後処理は全部保険屋がやるのである。 この時ハタと気づいた。金持ちはクルマで人をはねても日常生活にまったく支障をきたさないのである。クルマだって丈夫だからケガすらしない。 この保険屋は事故の過失比率を5分5分だと言うた。ところが、行きつけのバイク屋のおっさんに聞くと、「あんたバイクの後部をはねられとるやんか。先に交差点に進入したんなら5分5分はおかしい」と言われる。保険屋に言うといきなり比率がこちらに有利になった。 ここから大モメにモメ、事務所で茶をひっくり返した。この事務所に張り紙してあった営業目標に 「保険金全件支払い」 と読めた。保険屋は問題を起こさず粛々と金で事故を収束させれば、それが実績になるのだ。 少なくとも自分だけはカネではすまされんぞ、という意志表示のため、受け取りを拒否したのだった。バイクの傷も少なかったので修理代はたいしたことがなく、バイク屋のおっさんは丁寧に泥を洗い落としてくれた。 こんな具合でクルマには積年の恨み骨髄怒り心頭ときどき怒髪天のち涙、であって、こんなものを手に入れるのは魂を売り渡すような気すらした。だけどクルマが必要になってきて非常に困っている。 以上言い訳である。
車で芦屋へ、毎週土曜日は合気道のお稽古である。内田先生はバリ島でまったり中なので、先輩の女性道友(ちゅうのかな)が稽古の指揮をとる。 暖かい、稽古もやりやすい。気分も晴れやか。はーるよ来い。 過去2回、苦悶の稽古から学んだこと。基本も何も分からぬのだから、悩むだけ無駄である。楽しくやろう。稽古は1回3時間という長時間なので(しかもこの日は休憩があったが、内田先生のご教授の時は休憩なしの3時間)、みな覚えようとしても無理。先輩道友ですら動きを確認しつつやってるのだ。3回目の俺にできるわけがない。とにかく身体で覚えよう。ブログの副題も変えたことだし。 膝行(しっこう。ちゃんとEG BRIDGEの変換で出ますね)というのを準備運動で始めてやる。膝行というのは膝を折ってしゃがんだまま腰を低くして歩くこと。おお、みなさん時代劇の侍みたいだ。 前回ナガオカに「岡本さん、稽古のさいちゅう怖い顔してますね」と言われてしまったので、できるだけにこやかに、楽しく。無理に表情を緩めなくでも、心は楽しいんだけどね。 でもそのおかげか、高砂市から参加している女性道友とお近づきになれた。このブログも見つかっちゃったみたいね。3回目になると、だいたい道場のメンバーの顔と名前も一致しはじめる。 稽古のほうはやっぱり例によって1時間半くらいで頭がパンク。複雑な技はむりに覚えようとせず(覚えられるはずもない)、簡単なもののみを頭で半すうする。手本を真剣に見ながら別ごとを考えている。 どっちみち頭に入らないのだから。稽古のあとS藤さんが「自分のペースでやってください。時間はかかりますよ」と言ってくださり、救われる。 はるかに道遠いが、それが自体が楽しみ。畳4畳くらいの広さがあれば稽古ができることも分かった。復習くらいはしてみようかな、と思う。 購読しているメルマガ『日垣隆のガッキィファイター』。「絶対お薦め本」コーナーで内田樹師範の新刊『ひとりでは生きられないのも芸のうち』が短く紹介されていた。
2008年「最高の収穫」であり、50年後にも「この本が日本語で書かれていて良かった」と思える1冊です。 以上。これに付け加えるべきことはありません。
日垣氏はふだんはもっと言葉を費やして書評を展開するのですが、今回はまったくことばを費やさない激賞。 これまで日垣氏から紹介された本の経験からして、まず確実にハズレなし。アマゾンで即買いする。
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